和製ベーブルース・清宮幸太郎とベーブルースからメジャーリーグに誘われた少年投手・沢村栄治


柴川淳一[郷土史家]

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高校野球・西東京大会で八王子球場に彗星のようにデビューした16歳の少年。早稲田実業の一年生で四番の「清宮幸太郎」君。テレビやネットで連日のように取り上げられている。

今の時代に生まれて野球をやれることは本当に素晴らしいことだ。「清宮幸太郎」君はじめ全国の野球少年のみならず、すべての若い人たちが、いつまでも平和に人生を全うしてもらいたいと願わずにはいられない。

昭和9年11月20日静岡県草薙球場のマウンドに今の清宮君より一歳年上の17歳の少年が立っていた。アメリカメジャーリーグの選手団が親善試合をするために来日した。当時、日本にはまだプロ野球がなかった為、日本チームは学生、社会人の混成チームであった。

少年投手の名前は「沢村栄治」。日本プロ野球界の創生期に大活躍した伝説の大投手である。

六回までメジャー連合軍のヒットはヤンキースの大打者ベーブルース(39歳)のシングル一本のみ。メジャー公式戦終了後、骨休めの観光気分で来日していたメジャーリーガーたちの顔色が変わった。中でもルーゲーリック(31歳、ヤンキース)は憎しみのこもった目で沢村を睨み続けた。

彼は、なんとかしてヤンキースの先輩のベーブルースに取って替わろうとしていた。ベーブルースは「キラーカンパニー(無敵)」と呼ばれた、ヤンキースの象徴であった。しかし、年齢的にはピークを過ぎていてその年のホームランはゲーリックの48本に対して、ルースは22本であった。お人好しのルースはチームメイトに沢村投手の球種をレクチャーした。

「あの少年のベストショットはホップ(早い直球)だ。あとはドロップ(落差のあるカーブ)とフック(高速スライダー)。ホップとフックはなかなか打てない。ドロップを狙え。ただし、ドロップを投げるタイミングは俺にはわからない。」

ルーゲーリックは沢村がドロップを投げるときに口をへの字に結ぶ癖を見破った。そのことをチームの誰にも告げずに7回の打席に着いた。二球直球を見送り三球目のドロップを強振した。打球は左中間スタンドに突き刺さった。

試合はメジャー連合軍が1-0で勝った。 沢村がこの日奪った三振は9個。左足を高く上げてオーバースローで投げる豪快なフォームに惚れ込んだベーブルースは試合後のプレスインタビューに答えて言った。

「サワムラは今すぐメジャーリーグでプレイすべきだ。大投手になるぞ。なんなら、私が引き取ってもいい。」

歴史に「もしも」はないが、もし、この時ベーブルースと沢村が養子縁組していたら、大リーグの歴史も、日本プロ野球の歴史も変わっていただろう。 この後日本は日中事変、太平洋戦争の泥沼へと突入して行く。沢村栄治は三度も徴用された。

二回、奇跡的に復員したが最初の従軍で肩を痛めた。来る日も来る日も重い手榴弾の投擲を強制された為である。職業野球に復帰後、サイドスローやアンダースローを試したが、もう勝ち星は得られなかった。

三度目の召集令状を受けて戦地フィリピンに向かう輸送船が米軍潜水艦の攻撃を受け、太平洋上で戦死した。27歳だった。 プロ通算成績63勝22敗。防御率1.74。背番号14は永久欠番。

近年、テレ ビ番組で残された沢村の投球シーンのフィルムを解析したところ、160キロを超えていたという。和製ベーブルースと話題の清宮幸太郎君を見るたびに、戦火に消えた永久欠番・沢村栄治を思い出さずにはいられない。

 

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柴川淳一

柴川淳一。郷土史家。1954年香川県生まれ。明治大学卒業後、地方銀行に37年間奉職。