吉川英治の小説「宮本武蔵」に隠された秘密


柴川淳一[郷土史家]

***

吉川英治の小説「宮本武蔵」に登場する佐々木小次郎については謎が多い。吉川英治は武蔵についての正伝は漢文なら、わずかな行数にしかならないと言っている。

氏がそもそも朝日新聞に小説「宮本武蔵」を連載開始するに当たり、新聞社内では大反対があったと言う。理由は講談本に伝わる武蔵のイメージからだ。つまり、妖怪退治等、荒唐無稽なストーリーである。

講談ばなしや浪花節を天下の朝日新聞でやるのは止めてくれと言うことだ。そのため吉川英治担当の編集者はずいぶんとパワーハラスメントの対象となったらしい。しかも、吉川英治の「完全主義」のため原稿の遅延も半端ではなかったという。

いつ原稿が落ちるかとハラハラしどうしで社内幹部から編集部、印刷所に至るまで吉川英治バッシングは続いたそうだ。

肝心のストーリーだが武蔵(むさし)が武蔵(たけぞう)のまんま、何時まで経っても変わらない。関が原参戦のあたりから親友の本位伝又八(ほんいでんまたはち)と明日の見えない自堕落な生活が続く。担当者の泣きが入ったのがこの頃だったらしい。

「(吉川)先生。いい加減にして下さいよ。原稿は遅いし、内容は暗いし、(朝日新聞社)の上は200回の約束だか、こんなに不人気なのだから、連載中止だと怒っていますよ!」

また、東京帝国大学の本位田祥男(ほんいでん・よしお)経済学博士からは架空の人物とは言え、本位田又八の小説・宮本武蔵におけるその扱いが侮蔑的であると抗議を受けている。帝大の学生達が博士のことを又八と呼んで馬鹿にすると言うのだ。まさに四面楚歌の吉川英治先生だ。

しかし、その後、「宮本武蔵」は新聞小説の連載回数史上1位の大記録を作ることになる。連載回数はあっという間に千回を越え、四年間に渡り、朝日新聞夕刊に連載された。大逆転である。その理由は、宿敵、巌流・佐々木小次郎を登場させたことである。

「宮本武蔵」は大人気を博し、センセーショナルを引き起こした。読者はもちろん、新聞社幹部は手のひらを返したように吉川英治を持ち上げ、あれほどパワハラを受けた編集担当も、小説の今後の展開、あらすじを知人から尋ねられたりして面目を施したそうだ。吉川も原稿アップが極めてハイペースになったという。

さて、唐突だが巌流・佐々木小次郎のモデルは同時代の大衆作家・直木三十五である。直木三十五、菊池寛、吉川英治については「宮本武蔵」論争と言うものが存在する。三人は旧知で仲の良い小説家仲間であったが、かなり感情的に何回も議論している。ラジオ、新聞、雑誌を使っての大論争だったようだ。

三者の中で一番論説過激であったのは直木三十五であった。菊池寛はこの論争を途中下車した。直木は論争半ばで他界した。吉川英治は直木に吹っかけられた論争の最終回答を小説宮本武蔵で出した。

その際、武蔵の好敵手・佐々木小次郎のイメージに直木の面影を被せた。論争を途中下車した菊池寛は小説には書かずに自分の会社で直木賞を制定した。文芸春秋社はこの時、あわせて社主のもう一人の親友・芥川龍之介の名を惜しんで芥川賞を設けた。

吉川英治は歴史家顔負けの取材主義、検証主義の小説家である。その吉川がどれほど調べても佐々木小次郎の実像は浮かんで来ない。武蔵の真の史実が漢文数行と吉川自身が言うよりさらに謎に包まれた巌流・佐々木小次郎。

武蔵の真実を知ることによって佐々木小次郎の正体もさらに明らかになる。

 

【あわせて読みたい】

The following two tabs change content below.

柴川淳一

柴川淳一。郷土史家。1954年香川県生まれ。明治大学卒業後、地方銀行に37年間奉職。