<「暴徒」と「志士」は身分の違い?>司馬遼太郎「倉敷の若旦那」に見る勤皇思想に染まった町人


柴川淳一[郷土史家]

***

司馬遼太郎「倉敷の若旦那」の初出はオール読物1965年6月号である。

幕府の天領、白壁、蔵屋敷の町に幕末に、名字帯刀を許された豪商の家があった。その商家に養子で入った若旦那は町人ながら、勤皇思想に染まり、同じ豪商仲間の米屋の不正を憤り、殺害に及んだ。倉敷、備中、備前に居場所のなくなった彼は、各地を逃亡の果て、長州藩の客分となった。

革命を起こさんと第二騎兵隊150名を率い、倉敷代官所を襲撃した。運悪く代官は配下を引きつれ広島に出張中だった。闇に紛れて代官邸を襲って屋敷内の九人を殺害した。翌朝、検死すると、すべて町人で、かつて若旦那と旧知のものであった。

長州藩は、若旦那以下第二騎兵隊150名を長州藩士ではない暴徒と規定し、木戸準一郎(桂小五郎)は「愚人、事を誤る。」と激怒した。若旦那と第二騎兵隊150名は、幕府にも長州藩以下各藩すべてを敵に回し、瀬戸内海を逃げ惑い、周防浅江港(現、光市)にて長州藩兵に殺害された。

幕末、勤皇の志を持って死んでいった志士たちは維新後、ことごとく贈位をもって報いられたが倉敷の若旦那に率いられた元長州藩第二騎兵隊の面々には賊名だけが残った。

この哀しい幕末ドンキホーテたちの物語を司馬遼太郎は淡々とした事実描写のみで表現した。

それだけに、なおさら、倉敷の若旦那たちの哀れさが強調されている。維新後、倉敷の豪商達は文明開化の東京に上るものが多かった。倉敷に広大な土地を持ったまま、東京で新たな事業に励む。三井、三菱を初め、数多の財閥が誕生した源はこの維新の動乱の中であった。

倉敷の豪商達は大財閥とまでは行かなくとも、いずれも、そこそこの財を成して今日に至っている。時節を誤り暴挙に出た倉敷の若旦那一味と、彼らに殺害された幾人かの倉敷豪商を除いては。

 

【あわせて読みたい】

The following two tabs change content below.

柴川淳一

柴川淳一。郷土史家。1954年香川県生まれ。明治大学卒業後、地方銀行に37年間奉職。