日本人で初めてルイ・ヴィトンのトランクを愛用した板垣退助


柴川淳一[郷土史家]

***

板垣退助は、もともと、乾退助と言った。板垣になるのは官軍先鋒隊として甲府に進攻したときである。

少年期、南組という不良グループを組織した乾少年は高知城下で暴れ謹慎処分となった。この時、古流柔術「備中伝竹内流柔術」免許皆伝であった。大人でもかなわなかったと言う。二十歳のとき、江戸詰めで同僚に不正義な人がいて危めている。そのため蟄居謹慎処分一年となっている。

乾の家は300石の上士、後藤象二郎も上士、武市瑞山、中岡慎太郎、坂本直柔は下士である。乾退助は後藤象二郎とは親友で武市瑞山、中岡慎太郎とも交流があった。

しかし、坂本直柔とは面識があったものの交流は無かったと言われてい る。そのくせ、身分が低い郷士の出ながら、一歳年上の坂本にあこがれ続けた。日露戦争前に明治皇后陛下に坂本龍馬直柔はきっと日本海軍の守り神となって陛下をお守り致しますと奏上した。

薩摩、長州の藩閥政府を嫌い、参議を辞して在野の人となり、土佐に立志社を設立し「土陽新聞」に「汗血千里の駒」を龍馬を主人公として掲載させた。板垣退助はそれほどまでに坂本龍馬直柔を尊敬し続けた。

通説では、両者は交流が無かったとされているが、筆者の友人の高知の漫画家はこう言った。

「退助の実家は高野寺ん所で、龍馬は2丁目だから、割と近い。歩いて5分程度ではないかな。2人に接点は無かったと言う話になってるみたいだけど、歳も違わず実家が近いからねぇ。いくら上士と下士といっても、最低でも、どっかで接点はあったはず。子供の頃は遊び場が一緒だったはずだし。接点がなかったというのが不自然・・・と思う。」

明治15年(1882年)、岐阜の演説会場で板垣退助は愛知の小学校教員・相原尚聚に短刀で胸を刺される。この時、板垣退助45歳、相原尚聚25歳であった。

傷を受けながらも古流柔術「備中伝竹内流柔術」免許皆伝の板垣は相原を押さえつけて官憲に引き渡す。血まみれの板垣には「板垣死すとも自由は死せず!」と叫ぶ余裕は無かったに違いない。

相原は終身懲役刑に処せられ北海道へ流刑となる。明治22年(1889年)明治憲法公布の特赦にて放免された。相原は上京し板垣を訪ね、涙ながらに謝罪をした。板垣はこれを許したと伝えられている。

しかし、元テロリストの汚名は拭えるべくも無い。相原は失意のうちに故郷を捨て、再び自身の流刑の地・北海道を目指す途中、金華山沖で船から投身自殺を図り32年の生涯を終えた。

相原尚褧に対して、特赦嘆願書を明治天皇に提出したのは、他ならぬ板垣本人であった。自身を殺害しようとした相手を許し天皇に赦免を請う。

維新の功績に贈位を賜ったがこれも恐れ多いと辞退した。家屋敷を売り払い、私財を擲って自由民権運動に身を投じたため晩年は金銭的に困窮した。

金も名誉も捨て仇敵さえも赦す。しかし、自由民権運動の祖として名は残り、百円札にその肖像画が描かれた。

欧州視察に派遣されたが貧乏な為、友人が金を工面しトランクを彼に贈呈した。日本人で板垣退助が初めてヴィトンのトランクを愛用した人物だ。

 

【あわせて読みたい】

The following two tabs change content below.

柴川淳一

柴川淳一。郷土史家。1954年香川県生まれ。明治大学卒業後、地方銀行に37年間奉職。