<メディア論のかなた1967~1973の時代精神を探る>1967年クリスマスのヒットチャート


水留章[テレビ制作会社社長]

私は現在59歳である。自分が中学生高校生だった頃の世の中の出来事。 当時の自分が、どういう風に感じていたか書き留めてみたい。20世紀の後半のとても変化の多い重要な時に暮せたことを今でも嬉しく思うし、 ずいぶん忙しい思春期だったなぁと笑ってしまう。

最初は 、1967年クリスマスのヒットチャートから。当時まだビートルズが偉大なグループではなく、同時代の凄い存在だった頃の話だ。彼らはライブこそ止めていたが、毎年新譜を出すべきバンドだった。今では音楽の教科書に載っているし、下手したら社会の教科書にも20世紀の歴史の1ページとして記述されてもおかしくない。

「オブラディオブラダ」は「オクラホマミキサー」にとって代わり、運動会の行進曲にまでなっている。バッハやベートーベンと同じ古典とも言われている。3Bだなんて言う人もいる位だ。今の中学1年生にとって、親以上の年齢の人が夢中になった音楽で、 ポール=マッカートニーはお爺ちゃんと同い年だったりするかも。

1967年にはビートルズはまだ不良の音楽だった。我が家でも親たちはうるさい音楽だと思っていて自ら聞かないし、20歳台の若い叔父が「Please Please Me 」のシングル盤(単色ピンクカラー)持っていた位だった。そのジャケットには「イギリスのコーラスグループ日本デビュー!」と紹介してあった。

「イエスタデイ」は素晴らしいが、他の曲は煩い、と言うのが一般的な街の評価だった気がする。 エレキギター買ってビートルズを真似すると、成績落ちて不良になるぞ! 慶応ボーイで髪の毛を七三に分けていれば、 加山雄三なら、ランチャーズならば、許してやるぞ!そんな感じだった。

その年の6月に「Sgt.Pepper’sLonely Hearts Club Band 」が英国で発売された。全世界同時発売の勢いで7月に日本発売。こんなに時差がないのは他になかった。ジャケットがあまりにもゴテゴテしていてびっくりした。沢山のフィギュアの中で「マリリン・モンロー」と「福助」が印象的だった。我が家の本家が呉服屋で「福助」の大きな人形があったのが自慢になった︎し、 日本代表の様に思えて嬉しかった。

クリスマス用の彼らのシングル盤は「ハロー グッドバイ Hello Goodbye」でモンキーズMonkeesの「デイドリームビリーバー」とラジオのDJ番組のヒットチャートのランキングの1位を争っていた。大接戦だった。

僕はモンキーズ派でデイビージョーンズに憧れ、TBSラジオにハガキを出した。 土居まさるさんが若者の味方だった時代で、ハローグッドバイが僅かに優勢だった。その結果を人生の一大事の如く、授業の合間に語り合っていた。朝からラジオの番組の話しかしてない年末だった。B面の「アイ・アム・ザ・ウォルラス」のジョンの声はお経にしか聞こえないし、 ジョン・レノンの気持ちなんて全然分かっていなかった。 当時のジョンは25歳位か。

ジョンがダコダハウスの前で撃たれて34年経って、 デイドリームは忌野清志郎の見事な訳詞で、セブンイレブンのCM曲として、人口に膾炙している。ハローグッドバイの歌詞も、当時は「ハローとグッドバイ」「イエスとノー」「ゴーとストップ」の二項対立の止揚目指す、禅問答のように深い意味がきっとあると信じて熟読玩味した。いま聴くと、ポールのあの能天気とも言える明るさのラブソングにも聞こえてしまう。

進歩か退歩か?

当時、中1の少年だった私は、銀婚式を迎えて社会人の娘と大学生の息子の父である。

【蛇足】 英語の勉強は楽しかった。”knife”のようにスペルが音とずれているのがよく気に掛かった。beatlesーbeetles monkeysーmonkeesが造語であるのは勿論のこと、good by とgood bye が英語と米語の違いと知ったのもこのころだ。 ♪Please Please Meが「どうぞ、どうぞ私を」ではなく、「どうか私を喜ばせて」だと知ったのはそんなに昔ではない。

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水留章

水留章(みずとめ・あきら)1954年神奈川県出身。大学時代に野沢協氏の薫陶を受け、偉大な知性の存在に圧倒される。TBS入社後、制作で居作昌果氏に指導受け、仕事の肝要を教わる。その後編成、営業、人事、スポーツを経験、現在 (株)ドリマックス・テレビジョン代表。趣味…クロール、宝物…Gibson J45