<メディア論のかなた1967~1973の時代精神を探る>1967年は中学生に努力を要求した[連載2]本と雑誌は必携アイテムだった


水留章[テレビ制作会社社長]

1967年はとにかく「おもちゃ箱をひっくり返した」状態だった。「価値観の多様化の始まり」とは、お行儀が良過ぎる言い方で皆々様が、それぞれ自分が正しいと口走りはじめた年だったんだろう。 親に「孝」、人に「仁」は格好良くないと思われ始めていた。

今から48年前。 当時、志村けんさんは東村山でビートルズとお笑いが好きな高校生だったし、 明石家さんまさんに至ってはまだ奈良の小学生で持ち前のカンで遊んでいただろう。 中居正広君は生まれてない。

東京都では美濃部さんと言う社会党・共産党推薦の都知事が誕生し、 公営ギャンブル中止を叫んで世のお父さんを困らせていた。 街にはジャッキー吉川とブルーコメッツ通称ブルコメの「…♫森トンカツ泉ニンニク♫…」が溢れてレコード大賞を受賞し、 テレビでは、OXの野口ヒデトが毎度歌うたびにカメラ前で失神して、女の子も何故か道連れで救急車に乗った。

そうだ!GS ことグループサウンド全盛期だったのだ 。 「ジュリーッ!」 どのバンドも持ち歌が足りないので、ビートルズではなく、何故かローリング・ストーンズの曲を演目に入れていた。 サラリーマンはみんな、多湖輝『頭の体操第1集』の問題を出し合い、高度成長を謳歌して、サントリーの純生を飲み、 学生は医学部のインターン問題から揉めはじめ、 ヘルメットを被りゲバルト、 ノンポリでいると「自己批判」させられそうだった。

佐藤栄作は非核三原則を思いつき、 ヒッピーもどきは頭に花をさして新宿凮月堂に集い、 女性は信じられない大胆さでツイギー張りのミニスカートに挑戦し(黛ジュンえらいっ!)、 女の子はリカちゃん人形で遊び、 男の子は車で暴走しカミナリ族と呼ばれ、 オバサン達は裕ちゃんの低音の魅力♫夜霧よ今夜もありがとう♫に痺れていた。

そんな時代の『Sgt.Pepper’sLonely Hearts Club Band 』はとても高尚で、 インチキ学者は「ビートルズは学問研究対象だ!」と 彼らが麻薬吸っているのも知らずに褒めちぎっていた。 僕には分からなくとも、一日十回は聴かねばならないLPだった。

この頃の中学生は色んなことに努力しなければならなかった。 過去の規範では「どうもやっていけない」と無意識に気づいていた。 だからビートルズの新譜は、クラシックのような「コンセプトのある」組曲だと活字を読んで、勉強しながら聴いたものだった。

未だその「コンセプト」を説明した人を見たことはないが…… そうしようとすれば、ジョンが丸眼鏡の奥で冷笑の眼差しだろうが。

なんでも勉強してから取り組むのが普通だった。 本を読まなければ、悩みを言語化しないと旅にも出られないと思い込むのも勘違いの特権だったんだろう。 行く場所は、寺山修二なら街から外、五木寛之ならロシア。

自分の家が讀賣新聞とっていることは大声で言えず、 朝日ジャーナル買う勇気もお小遣いもなく、 新潮文庫で古典的本を、親には宿題・学校の課題作文といっては買うのがせいぜいのことだった。

とにかく、勝手に身の回りの世間がドンドン動くので 中学生はどの分野でも努力しなければならない雰囲気だった。 だから、今では信じられないかもしれないが、 「本と雑誌は必携アイテム」だった。

スマホ、ゲーム、SNS! そんなの無かったから、「読むか喋るか聴くしか無い時代」だった。

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水留章

水留章(みずとめ・あきら)1954年神奈川県出身。大学時代に野沢協氏の薫陶を受け、偉大な知性の存在に圧倒される。TBS入社後、制作で居作昌果氏に指導受け、仕事の肝要を教わる。その後編成、営業、人事、スポーツを経験、現在 (株)ドリマックス・テレビジョン代表。趣味…クロール、宝物…Gibson J45