<テレビを作る、事件を伝える>地方在住者の願う「テレビ報道」のあり方


柴川淳一[郷土史家]

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テレビがあるおかげで現在ではどこに住んでいようと、大災害も凶悪事件も選挙結果も「ナッツリターン」も速やかに知る事ができる。

しかし、昭和30年代、四国の田舎にいた筆者にとっては、テレビの報道は全て過去のニュースであった。つまり、常に後から事件について知る、というものだった。

テレビ局の側にも変化があったようだが、その辺の事情は単なる地方の視聴者には全く分からない。おそらく、『中継』の技術や手法が飛躍的に進歩と、それにあわせた取材者の意識にも変化が起きてきたのであろう、ということぐらいは、素人なりにも理解できる。

単に子どもだった筆者が大人に近づいただけでなく、報道する人やその技術が革新的に進歩したのではないか。その境は昭和40年が一つの区切りであるように感じている。

筆者がテレビで事件報道をリアルに意識したのは、「東大安田講堂事件(1969年)」、「よど号ハイジャック事件(1970年)」、「三島由紀夫割腹事件(1970年)」、「浅間山荘事件(1972年)」ぐらいの頃からである。これらは昭和40年代以降に起きている。

昭和30年代の「道山刺殺事件(1953年)」、「南極越冬隊樺太犬生還事件(1956年)」、「赤木圭一郎死亡事件(1961年)」、「吉展ちゃん誘拐事件(1963年)」、「力「ケネディ暗殺事件(1963年)」などは、実は筆者はリアルタイムでは知らない。事件後、1週間から1年以上のちに起きた事実だけを知ったのである。

だから、1960年(昭和35年)10月12日に起きた右翼少年・山口二矢による浅沼稲次郎氏(当時・社会党委員長)暗殺事件については記憶が曖昧である。この事件については2014年11月11日付のメディアゴンの記事「<「たまたま偶然」こそテレビの特性>たまたま見た浅沼稲次郎の暗殺と加藤茶の『ヘン』」において、テレビプロデューサー・藤沢隆氏が詳細を述べている。

また、当時TBSの報道記者だった吉永春子氏はこの事件を現場で目撃しているという。当日、プロ野球日本シリーズが開催された為、先輩男性記者は、事件現場となった午後からの政治演説会の取材に誰一人向かわなかった。結果、吉永氏が単独で日比谷公会堂に行くことになり、そして午後3時5分、事件の瞬間を目撃したそうだ。

以下は吉永氏の著作からの引用である。

「私ははっとした。男は浅沼を刺したのだ。大変だ。私は裸足のまま、階段を駆け上がった。連絡用のマイクのスイッチをいれた。『大変です。浅沼さんが刺されました。』応答は全く無い。『重大ニュース。重大ニュース。浅沼さんが右翼に刺されました。』私は再びマイクに叫んだ。『何やっているんです。馬鹿。こちら日比谷公会堂の吉永。応答してください。聞こえないのですか。馬鹿。何してるのですか。』私はマイクを投げつけたかった。煮えたつ心を抑え、マイクの前で叫び続けた。…」

やがて気付いた後輩記者がデスクに告げるが報道部内は大騒ぎとなる。特番が組まれ、応援が来て生中継で現場レポートをする。特番のゲストの日高六郎・東大教授に「君、歴史的な場面にいたのですね。」と声をかけられた。彼女は「取材現場は何が待ち受けているかわからない。魔物なのだ。」と結んでいる。(『昭和の事件に触れた』吉永春子著、講談社刊より引用)

私たち視聴者にとっては普段知りえない裏側の話である。しかしながら、テレビを作る、事件を伝える側の人々は、どこやらの国の我欲の塊のような為政者に「テレビを作る、事件を伝えるということ」を妨げられる事のないようにテレビを作り報道を続けてもらいたいと思う。

筆者のような地方の視聴者はそれしか頼るすべがない。

 

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柴川淳一

柴川淳一。郷土史家。1954年香川県生まれ。明治大学卒業後、地方銀行に37年間奉職。