<東京への憧れを教え続けたラジオ>70年生きる「ラジオ付き蓄音機」の想い出


柴川淳一[郷土史家]

***

父親の家を片付けていたら、古いラジオ付き蓄音機が出てきた。

「ああ、まだ、あったのか」という懐かしい思いがした。この電気蓄音機は、昭和20年10月5日に筆者の父親が仙台の航空隊を除隊して四国に帰郷した時に戦友から買い取ったものだという。友人の手作りである。どこにもメーカー名が入っていないので、子供心に不思議な気がしていたものだ。

その戦友は軍隊でそういう技術を持った人であったのだろう。ラジオ付き電気蓄音機くらい材料があればと、いとも簡単に作ったらしい。そして、その戦友は、筆者の父親に借金の申し込みをした。父は有り金をすべて友人に渡して復員した。お人好しの父のことであるから、戦友の帰郷後の生活費にと、多額の金員を渡して自分は蓄音機を担いで復員した。

筆者は今回、父親の家を片付けるにあたり、この蓄音機を担いでみたが、かなりの重量であった。よくもまあ、こんなものを終戦直後、復員列車に持ち込んで帰って来たものだ。

この蓄音機は70年ほど、生きてきたことになる。この電気蓄音機の一番古い思い出は55、6年前のクリスマスイブの夜のことだ。父親が「きよしこの夜」のレコードをかけながら、仕事帰りに買って来たクリスマスケーキを自分で切り分けて、家族一人ひとりの皿に乗せて渡してくれたことである。

こういうと、優しい父親と幸せな家族団らん、裕福な生活を思い描かれるかも知れない。しかし、誤解のないように補足する。当時、一部を除いて、日本中の家庭が貧しかった。我が家は雨漏りのする長屋で風呂はなく、衣服は姉のお古を着ていた。クリスマスケーキの思い出は、その時だけで、二度となかった。

その後の思い出は「ラジオ放送劇」である。「一丁目一番地」、「コロの物語」、「幻城の秘密」。中でも「一丁目一番地」は特に心に染み付いている。「♪きのうも今日もまたあすも、ニコニコ笑って明け暮れる。ここは一丁目、一丁目一番地。」というテーマソングと、父親役の名古屋章さんの優しい声、お姉さん役の黒柳徹子さんの可愛らしい声が印象的だ。

地方の子供がイメージする「東京の山の手の家庭」はラジオから流れてくる「一丁目一番地」の世界がすべてだった。

それから、ラジオから流れてくる「落語」を聞くと、「東京の下町」は、長屋ばかりで、遊び人や職人やご隠居ばかりが住んでいてくる日もくる日も酒飲んで騒いで、朝から晩までずっと「てやんでい。」「べらぼうめい。」と言い続けていると思っていた。

後年、都内に住むようになってから、あちこち探してみたが、長屋も「一丁目一番地」も見つけることは、出来なかった。

ラジオのスポーツ番組はプロ野球と大相撲をよく聴いた。四国にはプロ野球のチームがなかったので特にひいきはなかったが、ラジオに洗脳されて「巨人、大鵬、玉子焼き」世代ではある。

歌番組は「歌謡曲をぶっ飛ばせ」が思い出深い。ロイ・ジェームスと弘田美恵子のMCだったと思う。流行歌を知らないと小学校で話題についていけないので一所懸命、ラジオの前で聴いて覚えていた。

中学になると、深夜放送に熱中した。東京制作番組は、「オールナイトニッポン」と「パックインミュージック」、「走れ歌謡曲」など。大阪毎日放送の「ヤングタウン」、大阪朝日放送の「ABCヤングリクエスト」もフェージングが掛からず直接、この電気蓄音機付きラジオから聞こえた。

「オールナイトニッポン」は地元高松市の西日本放送がネット局で鮮明に聞こえたが、「パックインミュージック」は地元がネットしてなかったため、東京からの電波を拾っていた。その後、購入した小型ラジオよりは昭和20年生まれの電気蓄音機付きラジオの方がよく、聞こえた。

その後、筆者は大学に進み、この古い電気蓄音機付きラジオを聴くことはなかった。今回、父親の古い家を片付けるにあたり、ラジオのスイッチを入れたがノイズが激しく、音声をキャッチすることは出来なかった。

ラジオの所有者と同様、介護の必要な状態なのかもしれない。涙を堪えながら、担いで父親の敷地内にある離れの家に運びこんだ。

 

【あわせて読みたい】

The following two tabs change content below.

柴川淳一

柴川淳一。郷土史家。1954年香川県生まれ。明治大学卒業後、地方銀行に37年間奉職。