<昭和とテレビ:力道山、猪木、馬場>あの頃、私たちはテレビでプロレスを観ていた


柴川淳一[郷土史家]

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子供の頃、初めて見たテレビジョン放送の白黒画面には上半身が裸の大人達が映っていた。

「この大人達は何をしているのだろう?」

と筆者は訝った。その後、すぐさま、

「大人が喧嘩している!」

と、思い直した。

なぜか、田舎の農家の座敷で大勢の老若男女と一緒にテレビの画面を見ていた記憶がある。筆者は誰かの膝の上に抱かれてジーッと見つめていた事を覚えている。それが生まれて初めて目にした「テレビ番組の力道山のプロレス」であった。

成人して、愛媛県の田舎の海辺の町で銀行員をしていた時に、警察道場で小中学生の子供達と一緒に柔道の稽古をしていた事がある。それはもう三十二、三年も前の事になる。子供達は力道山と言う名前は知っていたが当然リアルタイムで見たことは無く、オールドファッションの「空手チョップ」と、不恰好な「黒タイツ」を身に着けた相撲出身のプロレスラーは本当に強かったのかと筆者に尋ねた。

「力道山言うたら、ジャイアント馬場やアントニオ猪木の師匠やからな。弱いはずが無かろうが。」

日本プロレス崩壊後、馬場と猪木は袂を分かち、各々別個の団体を立ち上げている。1972年の事であり、双方が企業として収益を上げていけるようになったのはスポンサーとテレビ局がバックアップしたからであった。

ジャイアント馬場選手(社長)の「全日本プロレス」には日本テレビがつき、毎週土曜日の夜8時から1時間枠の「全日本プロレス中継」という番組ができた。アナウンサーは徳光和夫、倉持隆夫、松永二三男、若林「親不孝」健治、そして、福澤「ジャストミート」朗が歴代担当した。

若林アナウンサー以降のこのミドルネームにプロレスファンやテレビファンは大喜びし、本来、まじめなはずのテレビ局の社員があたかもプロレスラーのようなニックネームで自らを名乗り、絶叫しながら中継したからである。

アントニオ猪木選手(社長)の「新日本プロレス」にはNETテレビ、現在のテレビ朝日がついて力道山時代と同様、金曜夜八時から「ワールドプロレスリング」という番組で対抗した。歴代アナウンサーは、船橋慶一、三浦智和、古舘伊知郎の面々である。

そして、プロレス中継は古舘伊知郎アナウンサーの登場により、社会的なブームを引き起こす。古舘伊知郎は、詩的で、美しく、扇情的な言葉でプロレス中継を実況し、茶の間にそれを伝えた。それはテレビを見ていた子供達に、感動的に受け入れられた。

筆者と一緒に柔道の稽古をしていた子供達はそれぞれ、贔屓のレスラーがいて「全日本プロレス」派と「新日本プロレス」派、テレビ局で言うと「日本テレビ」派と「テレビ朝日」派に分かれて議論し合っていた。どっちのテレビ局のアナウンサーの方がプロレス中継の技術が上だ等と言い出す子もいて、「若林健治」派、「古舘伊知郎」派に分かれていた。

自分の贔屓のレスラーやプロレス団体、好きなアナウンサーやテレビ局を中心にその強さや正しさ、美しさを主張する。「馬場」派とか、「猪木」派とか呼ばれたりもする。

しかし、「馬場」派だから、「猪木」派のプロレスは見ない等ということはない。どちら派も「テレビ」の「プロレス」が大好きで全て見ているのである。

思えば、「プロレス」にも、「テレビ」にも夢がいっぱい詰まっていた。野球少年もサッカー少年もいたが、戦争が終わり、二十数年を経た平和な時代にテレビのプロレスは日本中の子供たちに夢を見せてくれていたのだ。

筆者と一緒に柔道の稽古に通っていたプロレス好きの子供達がどう成長しているか、今となっては知る由もないが、あの時代、「テレビ」と「プロレス」は間違いなく日本中の子供達に夢を与えていた。

 

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柴川淳一

柴川淳一。郷土史家。1954年香川県生まれ。明治大学卒業後、地方銀行に37年間奉職。