カネがなくても良い映画は作れる – 塚本晋也監督「野火」
高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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今年が戦後70年だったことが、もう忘却の彼方になりそうな12月である。
大概、この周年と言う概念は主体側が何かに利用したいからつけるのであって、客体側にとっては実にどうでもいいことなのである。
かの舞浜のネズミの国が開園何周年であろうが、あの大喜利番組の放送が何万回を迎えようが、卒業したらテレビしか活躍の場がなくなる秋葉原のアイドルが結成10周年でも、東日本大震災の復興の遅さは気にしていても、それが発生後何周年を迎えようが、うちのお袋が三回忌を迎えようが、他者には余り関係ないのである。
大体区切り区切りしか大切にしないというのは間違っている。
なぜ、こんなことを書いたかというと、戦後70年の今年封切られた、塚本晋也監督の「野火」を見たからである。この「野火」は断じて戦後70年を狙って作られた映画ではない。
塚本監督は「今を逃すともう撮れなくなる」と発言しているが、これは、「戦後70年の今年だから資金が集まって撮ることができた」と言う意味ではない。「戦争の生き証人たちの高齢化で今の時期を逃すと取材ができなくなり劇映画の真実みを脚本に織り込むことが不可能になる」と言う意味である。
昭和20年、フィリピン、レイテ島。すさまじい飢餓の中で行われた日本軍の撤退戦と、カンニバリズムを描く大岡昇平の小説「野火」。この、昭和の必読書でであった小説を塚本監督が映画化しようと思ったのは1999年頃、年齢は39歳であった。それから、19年経ってそれは実現し、今年、フィルムに焼き付けられることとなった。
公式パンフレットに寄れば、充分な出資者が集まらず、スタッフは映画づくりの基礎が無いTwitterで集めたボランティアを起用、重要な役を演ずる俳優も新人を起用している。
カネがないことは冒頭のシーンで分かる。主人公である田村一等兵(塚本晋也監督が演じている)が立っているはずのレイテ島のジャングル。僕の見間違いかも知れないが、ここに差す光は温帯の光である。レイテの熱地獄の太陽光線ではないように思えた。
しかし、そんなことは、すぐ些細なことだと分かる。俳優としての田村監督はその演技で、見るものに次々と答えを迫ってくる。
あの、すべてが瓦解した中にあって日本軍の上下関係が維持されているのはなぜなのか。
(映画「野火」製作・監督・脚本・撮影・編集/田村一等兵 塚本晋也)
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