<なぜドキュメンタリーを撮るのか>軍国少年だった映画監督の父が「子供向け科学映画」を制作し続けた本当の理由

映画・舞台・音楽

榛葉健[ テレビプロデューサー/ドキュメンタリー映画監督]

 
雲のあい間に中途半端に見える虹。5年前のきょう、東京の夕空に現われたこの虹が、私を救ってくれました。
実はこの日の朝、父が亡くなりました。元気だった父はその年の4月に突然「末期がんで余命3か月」と診断され、その通りになりました。
父は、ドキュメンタリー映画監督でした。同僚に、土本典昭監督や黒木和雄監督ら社会派の名匠がいましたが、父は映画界では珍しい理系出身だったことから、「科学映画」「教育映画」子ども向けの「理科」といったドキュメンタリーばかり作っていました。
私は大学生の頃、ジャーナリズムやドキュメンタリーに関心が出て来て、父が社会派のドキュメンタリーを作らないことに不満を感じていました。
そして挑発しました。

「世の中に問題があることを知りながら、それを描かないのは、やるべきことをしていない」

と。父は黙っていました。少し寂しげな顔をしながら。それから、およそ25年の歳月が流れました。
2009年、父は病床で、いのちのカウントダウンが始まっていました。残り3か月。2か月…。延命治療を断った父は、ホスピスで毎日を穏やかに過ごしていました。
私は、若い時の疑問を再び尋ねました。「何で科学映画ばかり作っていたのか?」と。父は、真意を初めて語り出しました。戦前、自分が軍国少年だったこと。特攻に行く覚悟を持って、国のために死ぬことが美しいと信じていたこと。終戦を迎え、それまで信じていたことが、一面からしか見ていなかったと思い知らされたこと…。
そして数年後、映画会社に入り、この国の未来を担う子どもたちに、合理的、客観的に物事を捉える知恵を身に着けてほしいと願って、子ども向けの科学映画を作るようになった、と…。
私の方が「一面的」にしか見ていませんでした。父の人生を。薄っぺらな正義感で、父を罵倒して、勝ったつもりになっていた愚かな自分を恥じました。みるみる涙があふれ、父に詫びました。

「ごめん…、父さん」

父は病床から上半身を起こして、私の手を取り、両手でさすってくれました。何も言わず、ただ笑顔で。私の中にある父の記憶は、その時の、手のぬくもりです。父は私の中にいます。今も確かに。
遠くに逝ったいのちは、実は一番近い所に存在している。そのことに気付いたのが、5年前の今日。この虹のおかげで「父は旅立てた」と納得でき、同時に、「父は私の中に生きている」と信じることが出来ました。
父から、母からもらったいのちを大切に。大切な人のいのちを大切に。そして、だれかのいのちを大切に、ドキュメンタリーを作り続けていきたい、と思います。
筆者が、テレビの仕事と並行して、震災を生き抜く若者たちの2つの映画(「with…若き女性美術作家の生涯」「うたごころ」)を各地で上映しているのは、父が、いつも一緒にいるからです。