<M-1審査の観点>立川談志、内海桂子ならどう採点?
高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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テレビ番組の見方は自由である。当たり前のことを書くが、これは、たまにアタマの悪いテレビ製作者の中に「この番組はこう見てほしい」というような、おこがましいことを放送前に発言する奴があるからである。
テレビは放送されたらそれがすべて。それを見た人がどう思おうがそれでおしまい。「いやこれはヤラセではなく」のような言い訳する間もない。それ以上でも以下でもなくて、それっきりで訂正なんかできない。そういう怖〜いメディアがテレビなのである。
ところで、「テレビ番組の見方は自由」という特権を持っているのは視聴者だけである。ディレクター、放送作家、テレビ局の営業、編成マン、出演者、代理店、スポンサーなど、関係のプロはテレビを自由に見る訳にはいかない。商売の観点から見るのである。
【参考】<収穫なかった「M-1」>和牛はもう漫才師としては一級品?
12月2日に放送された「M-1グランプリ2018」を、例にとってみてみたい。まず、テレビの構成作家で、コント作家である筆者はそれぞれのマンザイをどんな観点で見るか。
(1)マンザイの内容が新しいかどうか。
(2)マンザイの運びが巧いかどうか。
(3)テレビタレントとして使えるかどうか。
(4)その時会場で受けているかどうか。
(5)自分の好みに合うかどうか。
筆者は、審査員でも何でもないが、職業柄そんなふうに見てしまう・・・ということを書いてみた。本物の審査員である上沼恵美子も、松本人志も、オール巨人も、こういう観点で見ていただろう。どの観点に重きを置くかは、審査員の自由である。そこを縛る権利は、出場者だろうがスポンサーだろうが、誰にもない。
そこで、今年のM-1決勝に残った・和牛・霜降り明星・ジャルジャルを例に見てみる。この場合の筆者の判断は以下のようなものだ。
(1)「マンザイの内容が新しいかどうか」については、霜降り明星。
(2)「マンザイの運びが巧いかどうか」については、和牛。
(3)「テレビタレントとして使えるかどうか」については、霜降り明星。
(4)「その時会場で受けているかどうか」については、甲乙つけがたし。
(5)「自分の好みに合うかどうか」については、和牛。
おそらく筆者が審査員であれば、迷った末に最終的には「和牛」を推していたであろう。上沼恵美子、松本人志、サンドウィッチマン富沢たけし、立川志らく、ナイツ塙宣之、中川家礼二、オール巨人の審査員7名も、どれに重きを置くかで、心が揺れ動いたに違いない。
番組の生みの親、島田紳助は、若い頃自分にチャンスが与えてくれた人がいたように、後輩にもチャンスを作ってあげたいと思ってこの番組を発案した。島田紳助の盟友、明石家さんまは、笑いのコンテスト番組が嫌いである。笑いにはどれが好きかはあるが、どれが優れているかはない、というのがさんまの考えである。
ところで筆者が今回の番組で最も笑ったのは、審査員の自己紹介である。
立川志らくが「死んだ師匠立川談志が降りてきている」と言って出場者に睨みを利かすと(50点とか、そんな辛口採点をしそうではあった。期待はずれだったけど、辛口採点する勇気がなかったんだなあ)、続いて紹介されたナイツの塙の「今、内海桂子師匠が降りてきている」だ。
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