緊急事態宣言が解除されても「コロナ以前の日常」は戻ってこない
物部尚[エッセイスト]
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2020年(令和2年)5月14日、安倍晋三内閣総理大臣は、39県の新型コロナウィルス感染症に対する緊急事態宣言解除の演説で、非常に気になるフレーズ発した。以下、重要なのは「」の中である。
「多くの地域における緊急事態宣言の解除によって、ここから、コロナの時代の『新たな日常を取り戻して』いく。今日は、その本格的なスタートの日であります」(以上、首相官邸HPより引用)
「新たな日常を取り戻して」の表現は、語義矛盾である。「新たな日常」なら、「始める」ないし、「つくっていく」であろう。「取り戻して(す)」のは、「かつての日常」である。「コロナ以前の日常」と言い換えても良い。つまり、「新たな日常」は始まるが、「コロナ以前の日常」は戻ってこない。
安倍首相は会見でスピーチライターの書いたプロンプターを読んでいるが、単純に読み間違えたのか、無意識の願望が表面化してつい言ってしまったのか、ライターが書いた文章をそのまま読んだのか。どちらにしても、安倍首相は「コロナ以前の日常」が戻ってこないことが分かっているのである。だから、「新たな日常を取り戻して」と言ってしまったのである。
では、ごく普通の日本人は、緊急事態宣言が解除されても「コロナ以前の日常が戻ってくる」のではなく、「新たな日常が始まる」のだと、理解しているのだろうか。世界の人も。コロナ後にやってくる「新たな日常」は容易に想像できる。今現在、みなが従っている「パンデミック下の日常の変形」だからである。どういうものか。以下に例示してみる。
暑い日も必ずマスクをして出掛けねばならない「新たな日常」である。
デートでは2メートル離れて歩かねばならない「新たな日常」である。向かい合ってはラーメンが食べられず、時には2人のあいだに仕切りのある「新たな日常」である。
ライブハウスでは舞台と客席のあいだを透明ビニールの幕で仕切らねばならない「新たな日常」である。ライブハウスでは密が出来ないようにたくさんの客は集まれない閑散とした客席の「新たな日常」である。盛り上がったところで空気入れ替えの休止がある「新たな日常」である。
麻雀荘で、2メートル離れて4人が勝負するには、卓を二回りくらい大きくして、牌も2倍くらい大きなものを使ってやるしかない間の抜けたバクチの「新たな日常」である。パチンコ屋は世の中の「新たな日常」を無視せざるをえない「かつての日常」である。
[参考]<史上最悪消費税>コロナ大不況転落の日本経済 -植草一秀
ドラマではキスシーンが出来ず、しょうがないのでCGでつくらねばならない「新たな日常」である。ひな壇タレント・芸人が大量失業する「新たな日常」である。
ラグビーは、タックル禁止のルールが導入される「新たな日常」である。ボクシング、レスリング、あらゆる格闘技をはじめ、身体接触のあるスポーツでは、ルール変更が求められる「新たな日常」である。相撲、野球、サッカー、バスケット。あらゆるプロスポーツは無観客試合が当たり前の「新たな日常」である。高校野球。インター杯。若人の全国大会はみな、一同には集まれない「新たな日常」である。
居酒屋での飲み会は映画「家族ゲーム」のように横一列にならんで開催せねばならない「新たな日常」である。鍋料理をみんなでつつくことはなくなり、ひとり鍋をめいめいで食べることになる「新たな日常」である。飲み屋で炉端焼きの長いヘラが重用される「新たな日常」である。
茶道では同じひとつの抹茶碗で回し飲みする伝統が消えてしまう「新たな日常」である。
ディズニーランドは入場制限が日常茶飯事の「新たな日常」である。
協会やモスクや、神社仏閣でパンデミックの終わりを祈るにも、信者が集まれば集まるほど、感染リスクが高まる「新たな日常」である。
ゴミ収集は週に1回になってしまうかも知れない「新たな日常」である。
他県への移動にはPCR検査でコロナ陰性の証明書を携帯しなければならない「新たな日常」である。私たちの行動が法律で制限され、監視社会になる「新たな日常」である。
インバウンドをもたらす、中国やアジア、アメリカ、ヨーロッパなどの観光客は簡単には日本にはいってくることができない「新たな日常」である。日本人も、卒業旅行や、老後のクルーズ船の外国旅行は控えなければならない「新たな日常」である。
資金繰りが行き詰まって倒産が続出する「新たな日常」である。政府は借金をして世の中に金を供給しなければならない今、その後はハイパーインフレが襲うと経済学が予想する「新たな日常」である。
会社には通わず、在宅ワークを行う「新たな日常」である。よって、都心に建設されている高層ビルに空き室が目立つ不動産不況が襲う「新たな日常」である。
グローバル社会が理想のように言われてきたが、その見直しも考えなければならない「新たな日常」である。北朝鮮の崩壊に本腰を入れて備えなければならない「新たな日常」である。
ハーバード大学の発表では新型コロナの流行がおさまるのは2022年だとしている。ならば21年の東京オリンピックなど、とても行えない「新たな日常」である。
もちろん私は、このような「新たな日常」には、なって欲しくない。だが、「新たな日常」を覚悟しながら、いまはどうすればいいのか、考え続けることだけはしようと思う。科学者にはワクチンを考えてもらおう。だが、ワクチンは万能でないことも頭に入れておかねばならない「新たな日常」である。
すこし引きで考えてみよう。一説に世界で8500万人、日本で310万人の死者をもって終息した第2次世界大戦。その後日本は「戦争前の日常」を否定され「新たな日常」を送ることが求められた。その「新たな日常」の代表は「民主主義」だったと思っていたが、結局「その後」日本を覆ったのは殺伐な強欲資本主義であったと考えていた矢先に襲ってきた新型コロナであった。
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