<日常生活はテレビ番組のネタの宝庫>キャミソールの流行を「ファッション紹介」ではなく「家庭のノンフィクション」にする技術
高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]
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最近はホームドラマが少なくなった。ホームドラマはどこにでもある日常を扱っているが、そこにはドラマ本来のストーリー性があった。嫁姑、夫婦、子供の進学、育児・・・。ネタは確かに豊富だ。
だが、最近は誇張したものばかりが選ばれるようだ。制作者が特異な設定がなければ人には受け入れられないと考えるようになったからだろう。しかし、特異な設定を作れば作るほど一般の人からは遠くなる。それは分かっていても特異な設定を作りたくなるのだろう。こうしてますます王道ドラマが難しくなっている。
ノンフィクションの世界ではどうだろうか。最近はカメラも小さくなり、画質も良くなった。携帯でも撮れる。その分だけ「家庭ノンフィクション」が作りやすくなっているようにも見える。
「大家族もの」などは今も健在だ。だが、これはホームドラマの範疇の「家族ノンフィクション」とは言えないだろう。やはり特異な設定が必要なノンフィクションだ。家庭の中で何か騒動を起こすことが必要になっている。喧嘩やいざこざ、極端に言えば「家出」の類が起こる。これが高じてやらせが話題になったりした。
通常家庭には大した会話はない。だから極端なシチュエーションが欲しくなる。そういう意味では子沢山の大家族は格好のネタでもある。家庭に言葉が多いのだから。
だが、一般家庭をそのまま撮ってもなかなか面白いノンフィクションにはならない。やはり、あるくくりが必要になる。
かつてキャミソールが流行ったことがある。下着風のファッションだ。その当時、筆者はこれを番組にしたらどうだろうかと思った。流行のファッションを追うこともできる。これは「家庭のノンフィクションではないか」とも思った。
企画が通り、担当ディレクターが決まった。しかし、「これが家庭のノンフィクションだ」という意味を担当ディレクターに伝えるのが実は難しかった。どうしてもファッション紹介番組になってしまう。その面は確かにある。
リサーチの段階で、父と住む若い女性がキャミソールを着たがっているが、父親が納得していないという話があった。これは面白くなるのではないかと思った。キャミソールは母と娘の話でも、娘と友達の話でもなく、父と娘の話ではないかと思っていたからだ。
下着風のファッションとは、「これを着よう」と思う娘には刺激的である。ある決断が必要である。似た面が父親にもあるような気がしていた。それほど着たいなら着せてあげたいが、父親とすれば庇護する存在ではなくなるということを自分で認めることになる。親離れの宣言である。
それを性的な魅力という、父親としては最も避けたいところで認めなくてはならなくなる。母親だったらまた別だろう。似合う、似合わない、色や柄というような会話になっていくのだろう。
妙に照れるのは父親のみである。それが分かる娘は父親から離れていきたくなる。そんな会話が実は撮れた。もっと遠慮気味の親子の会話だったが。彼女の選んだキャミソールは露出も控えめのものだった。
キャミソールというアイテムが家庭の中に入れば、それを取材することでいろいろな家庭の物語が撮れるのではないかと思った。親子の中にきっとさまざま逡巡があり、反発があり、友達同士には挑発や自慢があり、キャミソールを取材し続けることで、人間模様が自然と撮れるのではないかと思ったからだ。
だが、実際はキャミソールの情報番組に近づいていった。その先にある人間模様はメーンテーマからは外れていった。確かにキャミソールの番組である。だが、そこに家庭の風景がなければ、人をひきつけるのは難しい。
日常生活にネタを見つけることは簡単なことではない。だがもし見つけられ、うまくくくれれば多くの人が関心を持つネタにすることができる可能性がある。
初めてキャミソールを着て娘が父親にどうか? と聞き、そんなの辞めとけよ、とはとても言えず、しぶしぶ似合うのではないか、そのくらいならいいのではないかと了解する父親の顔はホームドラマの一場面のような気がするのだ。一度超えた一線はもう戻らない。清楚なイメージの娘の圧勝だった。嫁に行くことを決めた娘の顔のように見えた。
かつて先輩プロデューサーが「日常生活はネタの宝庫だ」、という意味の言葉を言っていた。この意味は重い。どの視聴者にも通じる普遍性のあるネタがあるということだ。
そのネタをどう調理するのか。視聴者が見たいと思える番組にどう仕立て上げるのか、それはどうくくるかによって決まる。仕掛けはその時々によって変わるだろう。だがそれは特異なシチュエーションを作ることではないように思える。
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