<東芝・不正経理問題>東芝は全てを無視した「社会より、会社を重んじ、会社より、身を重んずる人の群れ」

政治経済

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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東芝の不正経理のニュースを聞いて、筆者はある人と論争したことを思いだした。論争の相手は日本の大手銀行のニューヨーク支店長を務めた経済アナリストS氏である。
経済の知識などほとんどない筆者が無謀な論争を挑んでしまったのには訳がある。S氏の発言を聞いて「その発言には承服しかねる」とつい熱くなってしまったからである。時期は堀江貴文氏が株式買収によってフジテレビを支配しようとしていた頃である。S氏はこう発言した。

「会社は株主の物である。経営者は株主の利益を最大限にするために働かねばならない。」

この発言になんだかムッとしたのである。筆者は思わずこう反論した。

「会社は従業員の物なのじゃないですか。経営者は従業員が人並みに食っていける給料を払えるよう努力するものだと思いますけど。」

それに対してS氏は簡単に筆者の発言を否定した。

「それは、グローバルなスタンダードではないよ。」

その後、堀江貴文氏は証券取引法違反で懲役2年6か月の実刑が確定した。S氏はその頃になると「会社は株主の物である」という発言を声高にすることはなくなった。ただし、筆者が論争に勝った訳ではない。
筆者はもうひとつのことに気づいていなかったからである。それは「会社は社会のものでもある」と言うことである。
今回の東芝の不正経理問題は、経営者たちが「会社は株主の物」「会社は従業員の物」そして「会社は社会のもの」であるという3つをすべて無視した非道い問題である。言うなれば、

「社会より、会社を重んじ、会社より、身を重んずる人の群れかな」

と言うことではないのか。この歌は勿論、憲政の父・尾崎行雄の名言、

「国よりも党を重んじ党よりも身を重んずる人の群れ哉」

をもじったものである。まず、会社の利益目標を掲げ、そこに達しないとなると「工夫」をすることで帳簿の帳尻を合わせる。その時点では株主にはよいことで経営者の責任は問われない。ところがそんなものはいずれ露見してしまうから、経営者は「“ブランド・イメージ”を傷つけた」等と言って謝罪する。
“ブランド・イメージ”と言う言い方に会社に対する考え方、経営者の本音がぽろり出てしまったのではないかと、筆者は考える。経営者が傷つけたのは“ブランドそのもの”であって、“ブランドのイメージ”ではない。
“イメージ”は“心象”という意味であって、会社は“実態” であるから“イメージ”では決してない。経営者が“イメージ”(心象)によって実態を操れると考えているとしたら、それはおごり高ぶりも甚だしい。
経営者は結局、株主も毀損し、従業員にも損害を与え、社会にも大きな汚点を残した。それは我が身を守らんがためだった。と言うことである。
S氏が、むかし言ったグローバル・スタンダードとは、経済においては即ち、アメリカン・スタンダードの事だと思うが、東芝のような利益至上主義の強欲資本主義が日本の株式会社すべてに蔓延している可能性にも思い至って、なんだかうそ寒い。
 
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