<落語界に「立川談志賞」の創設を>ピース又吉の芥川賞受賞で考える「賞」の重要性

エンタメ・芸能

齋藤祐子[神奈川県内公立劇場勤務]
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芸人・又吉直樹氏(ピース)の芥川賞受賞の知らせに書店も文学界も久々に活気づき元気がいいようだ。
純文学の世界でも、若者を引き付け話題になるためにあれこれ手を打っているようで(もちろん作品の質が優先なのだが)、さかのぼれば、綿矢りさと金原ひとみの若手女子のダブル受賞(2004)あたりから話題性を狙ってきた気がする。
受賞時にマスコミ等にどれほど持ち上げられても、本人の実力がなければ、かの小保方さん騒動のようになることもあり(小保方さんは「ネイチャー」という権威ある科学雑誌に掲載されたわけだが)、芥川賞受賞作家という身分もさほど楽な道ではないだろう。
また、話題ばかりが先行する受賞も、あまり推奨されることでもない。が、どの世界でも若くて美人だったり、まだ若くて有望だったりする人材が出て(若い女性たちに)人気が出ればその業界が活気づくのも確かなことだろう。
今回、又吉氏の小説で初めて小説を読む若い読者もいるだろうし、芥川賞というものがどんなものか初めて知る読者もいるだろう。それだけでも、若者や今まで純文学になじみのなかった新しい読者に訴求するという点では、かなりのインパクトがあるのだ。だから次はどこ(のジャンルから新人作家を発掘しようか)、となるのも無理からぬ話というものだ。
又吉氏に関していえば、本業のお笑いをやめるつもりは毛頭なく、今までと同じように軸足はお笑いに置く模様だ。浮草のような人気商売から足を洗うつもりはないのは立派である。なにしろ、お笑い芸人も落語家も現業の人気がなんぼの人気商売。
笑いのセンスや技巧が評価される実演は、評論がさほど確立しておらず、いきおい人気というバロメーターで測られるのみの過酷な商売である。「〜という技巧」があれば生き残れる、などということはなく、ただただ、目の前にいる観客との瞬間のやりとりだけに身をゆだねる。
又吉氏は受賞を機に文化人に軸足を移しそうな気もしたのだが、芸人として生きていく覚悟はしっかりとしたもののようだ。
さて、同じく笑いを得る人気商売である落語家。上方落語界の中興の祖、桂米朝師匠が死後も存在感を保っているのは、オーケストラの指揮までこなす、八面六臂の活躍ぶりと興味関心や交流の広さと深さ。これに加えて、主には彼が残した膨大な量の落語の口述筆記のテキストと幅広い交流や勉学のたまもの=芸談や対談のかずかずのおかげだろうか。
死してなお、読むべき芸談やら、実演家である落語家からも貴重な資料として必要とされる落語の口述筆記の数々が残る。落語には定本といわれる台本がなく、主には師匠から弟子への口伝の芸だけに、テキストが残りにくいのだ。この点は、過去の名人といわれた落語家もさほどかわらない。
CDやDVDなどの録音を数多く残した名人なら、落語好きや落語家の後進が資料として聞く人もいるだろう。しかし、落語もやはり同時代の芸。自分が生で聞けなかった人をCDやDVDで追いかけて好んで聞く人はあまりいない。どんなによくできた録音でも、生の高座の迫力には及ばないからだ。
能筆で知られ、少し前になくなった立川談志師匠は多くの著作を遺したが、独特の諧謔に満ちたエッセイが多く、高座の口述筆記などは残していない。もちろん、米朝師匠はじめ落語家の名人連の口演の素晴らしさはテキストからはわからないものだが、そこはそれ。あればあったで資料的な価値もあり、またその師匠独自の解釈や工夫、先人や師匠の何を残し何を捨てたかまで知れてくる、貴重な代物なのだ。
遺したものをもとに、その全盛期を忍ぶしかないのが過去の名人連だが、もう一つ惜しいのは世代が代替わりすると名人たちもファン層とともに代替わりしてしまう点。
「落語という芸能の命を100年延ばした」とまでいわれる談志師匠にしても、年々その功績やエピソードは、ファンの減少とともに薄まっている。
多面体であるがゆえに、数多くいる弟子たちにさえ全体像がつかめないというわれる談志師匠。そうなのだ、その功績をなかなかコンパクトにまとめにくい人なのである。
このままでは談志家元の存在感が年々薄れてゆくという寂しい事態になりかねない。それはあまりにも惜しい。そこで筆者が考えたのは、「立川談志賞」の創設である。
本来なら、家元が存命中に、これは思う若手の落語家や共感する異ジャンルの有望株にこの賞を授与できればよかった。時には実演家以外の研究者も俎上に上がるかもしれない。そうやって毎年すったもんだしながら、なんでこの人なのかと時に首をかしげられながらも、代を重ねるにつれ、談志賞の本質とは何か、談志師匠が追求したかった評価するポイント・本質とは何か、が浮き彫りになってきはしないか。
もちろん、菊池寛賞受賞作が菊池寛の作風を伝え、芥川賞受賞作が芥川龍之介の作風を伝えるわけではない。ただ、その名を冠した賞を作ることで、何年たってもその賞にふさわしい何者かが選ばれ落語界に刺激を与え続ければ、これにまさる(中興の祖としての)存在感はないのではないか。
毎年、談志家元の命日に合わせて開催される有楽町読売ホールでの「談志祭り」。それに花を添え息長く続き、ファンともども一門で家元を忍ぶ恒例の企画として、ぜひ検討してほしいとひそかに考えているところである。
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