<プライバシーという暴力装置>女性の後ろ姿の撮影して有罪!女性専用車両に乗り込むと糾弾・絶叫?…問題を考える。

社会・メディア

藤本貴之[東洋大学 准教授/博士(学術)]

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現在、スマートフォンや携帯電話には不可欠な写真機能。その機能性も個人で楽しむレベルであれば、十分に専用のデジカメとしても代替可能だ。そのため近年では、デジカメ市場の縮小が止まらない。2013年の総出荷台数は、前年度比の36%減(6280万台)。2014年はそこからさらに19.6%の減少(5050万台)と予測されている。
携帯電話の人口普及率は今や101.7%といわれ(総務省調べ)、一人一台以上の時代に突入した。すなわち、そのほとんどがカメラ機能を有していると考えれば、日本国民はほぼ全員が手軽に利用できるデジカメを常に携帯している時代であると考えられる。
そんな中、8月28日、東急田園都市線の車内において、川崎市環境局に勤める40歳の男性が、乗り合わせた21歳の女子大生をデジタルカメラで撮影したところ、それに気がついた女子大生が警察に通報、迷惑行為防止条例違反で逮捕されるという事件がおきた。
「あぁ、公務員の痴漢か、盗撮か」と別段珍しくもない事件と思ってしまうわけだが、実情はそこまで分かりやすい「痴漢行為」というわけでもないようだ。逮捕された男性が撮影したのはスカートの中や下着といったものではなく、動画で全身を撮影した、というものであった。容疑者の男性は迷惑をかけたことを謝罪しつつ、「女性がきれいだったので撮った」と語っているという。
同じような事件は少なくない。女性の後ろ姿を撮影した自衛官が最高裁で有罪判決を受けた2008年の事件なども記憶に新しい。もちろんこういった事件では、スカートの中や下着、顔が映っているかどうかも関係はない。迷惑行為防止条例では映った本人が恥ずかしい、迷惑だ、と感じられてしまえばアウトなのだ。さらに言えば、シャッターを切らずとも、デジカメや携帯、スマホのファインダーを向けただけでも「迷惑」と感じられれば逮捕の危険性がある。
我が国においては、携帯電話=高機能デジカメである以上、もはやデジカメは「一人一台常備」となっている。気軽な気持ちでカメラを利用する、メモ代わりに利用する、あるいは、趣味として気軽に写真をとりまくる・・・という人は少なくないはずだ。カメラの存在はかつてよりも遥かに身近であり、生活の一部になっている。誰もがカメラマンであり、誰もが被写体という時代だ。
特にこの季節、夏祭りや盆踊りの会場で浴衣でキレイに着飾った女性や、旅行先で、美しい女性が風景の中に止め込むような美しい場面を見れば、風景写真としてもおもわずシャッターを切ってしまうこともあるはずだ。意図せずとも、たまたま女性が映ってしまうこともあるだろう。
もちろん、そういった環境を悪用して痴漢行為や明らかな迷惑行為、あるいは卑猥写真や個人の肖像権を侵害するような行為をすることは許されない。しかしながら、携帯電話=スマホがここまで普及している今日、写真を使った記録や表現活動はより一般化してゆくだろうから、今回のような事件はますます増加してゆくはずだ。
よって、いかに手軽になったとは言え、写真を撮影する時には細心の注意を払おうと再認識する必要があるだろう。しかし、その結果として、携帯電話、スマートフォンという利便性と表現力の高い機器の利用を萎縮させてしまうような社会状況には、個人的に少なからぬ問題があると感じる。
肖像権やプライバシーあるいは名誉といった個人の権利意識や重要性が高まる一方で、それが単なる「自意識過剰」になってゆく社会は住みづらい。あるいは、むしろそれを逆手にとって悪質な権利主張やいいがかりの増加もあるだろう。だからこそ、すいった「住みづらさ」が増幅しないためには、私たち社会の構成員一人一人がちょっと冷静になる必要がある。
例えば、8月18日に副都心線の車内で起きた問題。「女性専用車」に乗車した男性に対して、「男性恐怖症」と称して不愉快感をもった女性が、常軌を逸した絶叫で騒ぎ立てるという動画が話題になっている。

もちろん、女性専用車両に乗り込むことの倫理問題や、やや挑戦的になっている撮影者の男性にも問題はあるだろうが、女性専用車両には法的な強制力はない。また、副都心線の女性専用車両は通勤ラッシュが終了する9時から9時30分には終了するので、絶叫した女性に対しても「帰宅時はどうするのだ?」という疑問や矛盾も残る。
細かい問題はさておき、ここには過剰な権利意識や、あらゆる攻撃を跳ね返す万能の「プライバシーという暴力装置」という問題があるように感じる。
こういった問題は、賛否両論、立場や考えによって様々な意見はある問題だろう。男性と女性でも受け取り方、感じ方は異なるはずだ。しかしながら、根本の認識として「自分が思っているほど、他人は自分を見てない」「自分が思っているいるほど自分には価値はない」ということを、改めて考える契機にしたい。(藤本貴之[東洋大学 准教授/博士(学術)])
 
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