商機がないと分かっていてもテレビで「戦後70年番組」が大量に作られた本当の理由
保科省吾[コラムニスト]
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「じいちゃん、また戦争の話かよ」
昭和40年頃(1965年)、10歳だった筆者は、祖父が戦争の話を始めると、2歳下の弟とともに必ず抗議をした。うるさくてテレビの声が聞こえないし、もう何度も聞いて飽き飽きしているからだ。
今では戦争を知らない「60歳の爺」になった筆者だが、その頃はまだ、戦争を知らない紅顔の美少年であった。
じいちゃんの次男、つまり筆者の叔父は出征して南方で戦死しているが、じいちゃんの話はそのことではなく、買い出しに来る「都会の人の小狡さ」についての考察だった。
「米や麦や大根にんじん卵、食い物を分けてやるのはいい。お互い様だからなあ。もらっても着もしない背広とかでも交換してやったよ。でもなあ、こっそり卵とかをポケットに盗む奴がいた。それが10人に3人はいて、そういう奴は許せない。 同じ日本国民から盗んでどういう気だ」
じいちゃんは繰り言のように話すのだ。盗まれるものは卵以外にも、なすやきゅうりと変わったけれど、内容は同じだ。そのたびに筆者ら孫は、
「じいちゃん、また戦争の話かよ」
と、嫌な顔をする。サラリーマンだった父母もそれをたしなめることはしない。祖父の戦争話に迷惑顔である。
ここで、その時(戦後20年の昭和40年[1965]頃)の年齢構成を説明しておくと、以下のようになる。
- じいちゃん(71歳)明治27年生(1894)敗戦時51歳
- 父(36歳)昭和4年生(1929)敗戦時16歳
- 母(35歳)昭和5年生(1930)敗戦時15歳
- 筆者(10歳)昭和30年生(1955)戦争を知らない子ども
- 弟(8歳)昭和32年生(1957)戦争を知らない子ども
この頃の話をなぜ思い出したかというと、この頃は一般的に言って、
「戦争の話は多くの人から嫌がられていたようなあ」
と言うことに気がついたからである。それは、もう「語り継がねばならない」という正しい人は確かにいた。
しかし、一般家庭では、戦争を知らない子供たちや、戦争時代に幼年期を過ごした大人たちにとって「おおかた嫌がられていた」ように思う。
勿論、じいちゃんばあちゃんたちの中には、戦争の話は思い出したくない封印したいという人もいたには違いないが、筆者の回りでは近所の人も含めて話さずにいられないと言う老人が多かったように思う。
それがあまりにも回りから「またかよ」、特に可愛い孫から「またかよ」と言われ続けるのでじいちゃんばあちゃんは「戦争の話をしなくなった」のだ。
時代は既に、冒頭会話の時代設定より10年ほど前から、「もはや戦後ではない」(1956)とも言われていた訳だから、じいちゃんばあちゃんたちは戦後であることを、その後もがんばって主張していたことになる。でも、10年経って、その勢いは急にしぼんでいったのである。
で、戦争の話は「年寄りであることの記号」となって笑いのネタに使われるようになった。
- 部長は2・26事件の時に雪が降っていたのを知っている。
- パラシュートを落下傘だという。
- B29を竹槍で突いた。
- 何、その髪型「パーマネントは止めましょう」
- 審判の判定は「よし、だめ」でもいいですよ。
これらの笑いも、次第に通じる人がいなくなっていった。
こうして、じいちゃんばあちゃんの戦争の話は、聞いておかねばならない、記録しておかねばならないと言う心ある(?)人々がいる一方で、戦争の頃に腹を空かしていた子どもや、戦争の話は大嫌いな子どもなどの心ない(?)大多数の世代、世間によって、御法度と言うことになっていったのである。
その後、朝鮮戦争もあり、ベトナム戦争もあり、アメリカもソ連も中国も戦争をした。日本はしなかった。というような事情もありつつ…。
そして話は一気に今年2015年、戦後70年である。テレビやメディアはアニバーサリー(記念)を、商機ととらえる悪い癖があるから、戦後企画や番組のオンパレードである。メディアのトップはこれが実は商機にならならないことも知っているが、やっておかねばメディアとしての沽券に関わるというつまらない理由から、若手に命じて番組をつくらせる。
そして、やっぱり商機にならなかったといって若手を叱る。でも、上層部につくらせられた番組ばかりではない。と、その制作現場の多くを見てきた筆者は思う。
では、今年、じいちゃんばあちゃんたちに「世間によって封印された戦争の話」の口を開かせた若手はどんな年頃なのだろう。今年、こうした仕事の中心になったのは40代、つまり、1970年代(昭和45年代)生まれであろう。
昭和45年と言えば大阪で万国博が開かれ、よど号がハイジャックされ、「不幸の手紙」が流行った年である。この年代の人はつまり、「戦争を知らない子ども」どころか、それより遙かに若いのである。
おしなべて視聴率の悪かった戦後70年番組だが、大量のこれらを作った制作者たちは「なぜ、作ったのだろう」。一番簡単な答は、戦争のことが知りたかったからではないか。
なぜ、知りたかったのだろう。日本の世の中が方向として戦争に向かっていると感じているからではないだろうか。
「私たちの世代や私たちの子ども世代が戦争をしてはならない」
そういう理由でもなければ「戦争の話は、またかと思う聞きたくない話」に分類されるのである。
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