<ナンシー関の境地?>武田砂鉄「芸能人寛容論」が面白い

エンタメ・芸能

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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武田砂鉄の著作「芸能人寛容論」(青弓社)がきわめて面白い。
芸能人評、テレビ評では故・ナンシー関(1962年7月7日〜2002年6月12日)が唯一無二の金字塔であり、ナンシー氏が逝去後の14年間、皆、枯れ木も山の賑わいの要素を呈し、その麓にたどり着けさえしなかった。
ところが、武田砂鉄氏が、ようやくたどり着いたように感じる。そう思えるのが「芸能人寛容論」なのである。
ナンシー氏が達磨大師のようにテレビの前に座っていたとすれば、おそらく、砂鉄氏は、その半分ぐらいの時間は、テレビの前に座っているだろうことが、文章の端々から感じられる。ライター稼業、作家稼業、テレビの制作者稼業、これらの人すべてを通じて、もっともテレビを見ている人物かもしれない。
曰く、

  • EXILEはハイタッチを繰り返す集団である。
  • 石原さとみは唇に価値があるように作られる。
  • SEKAI NO OWARIは中二病ではなく、高三病である。
  • 能年玲奈は主演しか務められない。
  • 池上彰はみのもんたによりテレビ開眼した。
  • 森高千里は「私がおばさんになっても」若さを管理している。
  • 島崎和歌子は味の変わらない地元の定食屋である。
  • マツコ・デラックスは毒舌でないからテレビに引っ張りだこなのである。
  • 夏目三久は間と言うものを理解していない。
  • 松本人志はもう時代遅れであり、その現在の功績は和田アキ子の強引力を薄めたことである。
  • aikoの魅力は分からないのが正しい。
  • 中山秀征は目立たないことが存在理由である。
  • 加藤浩次は中立が演じられる人になり下がった。
  • 西野カナは語るとその場がつまらなくなる人である。

・・・と言うことが書いてある。誤読だったらごめんなさいだが、もし、誤読でなかったとすれば、この判断にはすべて同意である。
【参考】<NHK BS・ナンシー関のいた17年>つまらなくなったテレビをナンシー関はどう語るか?
ナンシー関のエピゴーネン(亜流)と言われるのが本望だと語る(「あとがき」より)武田砂鉄氏が、ナンシー関氏が鋼鉄を持って築いた芸能評論のバベルの塔に近づいたのはすばらしいことである。
ナンシー氏が洞察と直感と消しゴム版画の観察で語るとしたら、砂鉄氏は調査と論理で語っている。
芸能が、インチキ臭さといかがわしさで成り立っていることも良く分かる。インチキ臭さといかがわしさは人を魅きつけるひとつの要素なのである。
 
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