<テレビ報道の中立とは何か>両論併記でも、同量配分でもない理由
高橋秀樹(放送作家)
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テレビ報道において「中立性」は長く重視されてきた概念である。
しかしその一方で、この中立性が誤って理解され、報道の質そのものを損なっている場面も少なくない。とりわけ、「中立とは両論併記である」「中立とは賛否を同じ分量で扱うことである」「中立とは双方の意見をただ並べることである」という理解は、再検討される必要がある。

第一に、両論併記は中立性の必要条件でも十分条件でもない。社会的・政治的な問題において、対立する意見が存在することは確かである。しかし、意見の存在と意見の妥当性は同一ではない。検証可能な事実に基づく主張と、根拠が乏しい、あるいは虚偽を含む主張を「両論」として並列することは、視聴者に公平な判断材料を提供するどころか、認識を混乱させる結果を招く。両論併記は、場合によっては不正確な情報を正当化する装置として機能してしまう。
第二に、同じ分量で扱うことは中立性とは無関係である。報道の価値は時間や文字数の配分によって決まるものではない。事実の重み、影響の大きさ、社会的帰結は等価ではないからである。ある主張が圧倒的な証拠に裏付けられている場合と、そうでない場合とを、同量で扱うことは、形式的には公平に見えても、実質的には事実の歪曲である。分量の均等化は、むしろ判断を回避するための技法になりやすい。
第三に、「両方とも出す」こと自体が目的化することも問題である。報道の使命は、意見の展示会を開くことではない。何が起きているのか、なぜそれが重要なのか、どのような背景や構造があるのかを明らかにすることにある。意見を出すことはその一部に過ぎず、意見の位置づけ、前提条件、検証可能性を示さないまま提示することは、報道の責任放棄に近い。
では、テレビ報道における中立性とは何か。それは、価値判断を放棄することではない。むしろ、誰の立場にも安易に与せず、事実に対して誠実であり続ける態度である。権力を持つ側の発言であれ、少数意見であれ、同じ基準で検証し、背景や影響を明らかにし、視聴者が判断できるだけの材料を提供することが求められる。中立性とは「判断しないこと」ではなく、「判断の根拠を隠さないこと」である。報道が恐れるべきなのは、賛否のどちらかに偏ること以上に、判断から逃げることによって公共空間を空洞化させてしまうことである。テレビ報道は、沈黙や形式的均衡によって安全を確保するのではなく、検証と説明によって信頼を獲得すべきである。
以上のように考えるならば、テレビ報道における中立性とは、両論併記でもなければ、同量配分でもなく、また単に双方の意見を出すことでもない。それは、事実に基づき、権力と距離を保ち、視聴者が自ら判断できる条件を整える姿勢にほかならない。
テレビ報道に求められているのは誤った中立ではなく、公正である。
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