<漫画「昭和元禄落語心中」から今後の落語界を占う>大衆芸能はせいぜい50年しか続かないが、落語は300年も続いている

エンタメ・芸能

齋藤祐子[文化施設勤務]

 
ITANコミックスから出版されている雲田はるこ「昭和元禄落語心中」は5巻が出版され、先の展開がますます楽しみになってきた。高座の描写も、語られるちょっとした芸談もなかなかのもので、いったい誰がネタ元なのだろうと思うことも多い。
どうやら、作者自身が落語好きであれこれ調べながら書いているらしい、ということだが、5巻目では落語好きの小説家が主人公の若手落語家に語る次のようなセリフがある。

「時代に寄り添う大衆芸能はせいぜい50年しか続かないはずだが、落語は300年も続いている、なぜだと思う?」

主人公の師匠・八雲はその芸を継承させる気がないかのように長年弟子をとらずにきた。勢いのある落語家が出てこないまま、名人は次々と亡くなり、寄席は都内で1軒に減ってしまう。この漫画の世界では、(一足早く、でないことを願うが)落語はすでに、最後の名人上手の八雲とともに衰退しつつある芸能だ。

「その八雲が何を思ったかまるで未練のようにここにきて弟子をとった、それが君だ」

落語とともに心中しようとしていた、と告げる師匠の八雲に真打になったばかりの主人公が告げるセリフが泣かせる。時代とともに変わらなければならないのが、大衆に寄り添う芸能であるなら、同時にその芸能はまた、その核となる変わらないものをどこかに継承しながら新しい時代にマッチした生きのいい若手を育て続けなければならない。
若手の育たない他の古典芸能が、博物館入りするように「保護」されていくなかで、ライブであり大衆とともに生きてこその落語という芸能が、これからどうやって生き残りを探るのか。
何もない空間と、噺を聴きに来る上質の客だけで成り立つ、これ以上ないほどのシンプルな芸能・落語。その魅力を語りつくし、今後の落語界を占うようなこの漫画は、凡百の評論を超えて本質を突いていて目が離せない。
あとはもう、この漫画より若手の落語家の高座が面白いことを願うばかりだ。
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