<笑いとは共同幻想>単体でおもしろいギャグを考えることは「不毛」
高橋維新[弁護士]
「なぞかけ」は、笑いではない。あれは、「ウマい」の世界であって、「おもしろい」ではない。「笑ける」ものではない。笑点の円楽の答えにも、主に政治がらみの答えであるが、「ウマい」でしかないものが多々ある。
「ウマい」も、驚きや感動を呼び起こすものである以上、エンターテインメントにはなり得る。ところが、それはもちろん、笑いとは違う種類のエンターテインメントである。
笑いというエンターテインメントに違う種類のエンターテインメントが混じってくることに関しては、好きな人も嫌いな人もいる。これは完全に好き嫌いの問題であって、どっちが優れているという話ではない。
明石家さんまは、笑いに感動や涙みたいな他のエンターテインメントを混ぜるのが嫌いである。筆者も好きではない。笑おうと思って見ているものに感動路線で心を揺さぶられると、どこか、いてもたってもいられなくなる。だから、めちゃイケでたまに混ざる感動系の企画(オファーシリーズに多い)は、嫌いである。
これと同じ話で、ギャグも「笑い」ではない。
ギャグにも色々ある。志村けんの「だっふんだ」はギャグだろう。ダチョウ倶楽部の「ヤー」もギャグだろう。
これらを見て、今更笑う人がどこにいるのだろうか。
そもそも、こんな短いフレーズで笑いをとろうというのが土台無理な話なのである。仮に1回目はおもしろかったとしても、何回も繰り返すうちに確実に見ている方が飽きてしまう。
志村けんも、「『だっふんだ』や『アイーン』はコントの流れの中でやるものであって、単体でやるものではない」ということを言っていた。彼も、ギャグがそれ自体でおもしろいものではないと気が付いていたのである。
では、なぜ未だにギャグが笑いの場面で多用されるのか。
笑いの役割とは、対象を排斥しつつ、その対象をスケープゴートにしてみんなで笑いあうことで、共同体の連帯を高めることである。この作用を筆者は「結紮力(けっさつ:糸などで結ぶ)」と呼んでいる。
すなわちギャグも、笑いを呼び起こすものでこそないが、共同体の連帯を高める役割を持っているのである。笑いと類似の結紮力を持っているのである。
ギャグは通常、同じものを、いろんな場面で見せている。そのギャグを知っている人は、それを見たときに、「いつもやっているアレだー!!」という感動を覚える。この感動を複数の人が覚えることで、みなが、「私たちはあのギャグを知っている仲間」という連帯感を感じることができる。そのうえ、ギャグを知らずにポカーンとしている者を排斥することができる。これが、ギャグの「結紮力」である。
同じ作用は、吉本新喜劇のお約束の流れにもある。吉本新喜劇には、判で押したように繰り返されるいくつかのパターンがある。何回もやるから、すでに客にとっては笑えるものでなくなっている。それでもやるのは、そのパターンを繰り返すことで、「いつもやっているアレだ」という感動を客に呼び起こし、結紮力を生ぜしめることができるからである。
すなわち「ギャグ」や「お約束」は、「笑い」そのものではないが、同じ「結紮力」の作用を持つ仲間として、笑いと非常に親和性が高いのである。ゆえに、飽きられても繰り返されるのである。
ギャグが持っているのはそういう役割でしかない。つまり、単体でおもしろいとギャグを考えるなどということは「不毛な作業」と言えるわけだ。もちろん、わざとスベりたい局面では、別であるが。
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