<「hideの死」と難病の少女>X-JAPANを知らないスタッフはどのように「hideの死」を番組にしたのか?

エンタメ・芸能

高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]
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テレビ番組を放送する時期というのは視聴率に大きく影響する。
早すぎるというのもダメだけど、遅すぎるというのはもっとダメだ。ネタにも人にも旬というのがある。旬を外してはいけない。だから出演者選び、ネタ選びにプロデューサーはいつも苦心する。
だが、ディレクターはどちらかというと「どう作るか」を優先している。どんな番組であっても「もう少し時間をかけたい」と思っているのだ。だから後手になることが多い。
ではいつが良いのか? 大勢の人間が取り掛かかってでも早く作る番組が良いのか、多少時間がかかっても一人の人間が取り掛かるのが良いのか、これは悩ましい問題でもある。
1998年の5月にロックバンド「X-JAPAN」のhideが死んだ。
突然の死だった。これはすべてのニュース番組が取り扱うということは容易に想像できた。どこも深堀がしたい、深堀できる追跡ネタを求めたのは当然のことだ。
たとえば「死の真相が知りたい」というのがある。だが、これは簡単に出来る話ではない、よほど当事者と親しくなければ類推でしかない。独自の視点が必要だ。
死んだ第一報が入った時に、撮影用にカメラを一台出した。その先はある少女の家だった。実は我々は以前から彼女を撮影していた。その時に彼女はショックで泣き続けていた。そんな状況だから、それ以上の撮影が出来たわけではない。もちろん、そこにhideの死の真相があるわけではない。
その映像はニュース用ではないので放送時期が決まっているわけではなかった。しかし、すぐに「放送できるならやりましょう!」という案が出た。そして放送に向かって準備が始まるのだが、大勢が参加して短時間で作るというのは既にニュースでどこも作っている。
当日か、あるいは葬儀の日に十分すぎるほど放送される。大勢で関われる場所を探すだけでも大変である。大変というより、容易に想像がつく場所しかない。
それはゴールデンウィークの中での判断だった。本当に満足できるような内容になるのか、ならないなら「撮れただけ」を葬儀の日に出すほうが賢明である。しかし、数週間かけて作ろうということになった。どこまで撮れるものがあるのか、難しい読みである。それでも「放送しないといけないな」と思っていた。
少女は難病でhideに一度会いたいという夢を持っていた。それは適うのだが、私たちはその後もhideは取材とは離れて彼女と交流を続けていた。単独コンサートに招待し、楽屋でも会ったりしていた。コアなhideのファンの間では彼女は有名でもあった。
築地本願寺でのhideの葬儀には5万人以上が列を作った。なぜこれほどの人が集まるのか、多くの人がそう思い、ニュースもそんな視点から報道されていた。奇抜な衣装と化粧のバンド、一般的にはそんなイメージしかなかったと思う。
担当ディレクターは彼女を通じてhideのイメージを持っていた。「良い奴だ」と。率直にそれを表現したいと。新聞にもhideに熱狂するファンたちを理解しようとする解説、投書がいくつも載った。取材はファンたち、そしてその親たちを中心に行っていった。ファンはどちらかというと「強者」というより「弱者」といえる人が多かった。
その取材はほとんど一人のディレクターが行った。もちろん、編集も。その番組の放送はhideが死んでほぼ一ヶ月後に行われた。結果的には、視聴率も高かった。死んだ時の狂想曲はみな体験したが、hideがどんな奴なのだろうか、何者だろうかという問いは一月経っても持ち続けたのだろうと思う。
X-JAPANもhideも知らないスタッフが参加した番組だったが、皆「何だ、良い奴じゃないか」という印象を持った。
 
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