<「テレ」と「ビジョン」がテレビの原点>牛山純一プロデューサー「すばらしい世界旅行」に宿るドキュメンタリーの魂

映画・舞台・音楽

山田和也[ドキュメンタリー映画監督]
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かつて、麹町のテレビ局にドキュメンタリーの牙城があった。梁山泊と言った方が良いか。局員、フリーランサーを問わず腕の立つディレクターが第二制作部と呼ばれる部屋に出入りしていた。
1966年からその部屋で制作されていた名番組「すばらしい世界旅行」のディレクター達だ。このシリーズを立ち上げた牛山純一プロデューサーのことを、市岡康子ディレクターが著書『KULA 貝の首飾りを探して南海をゆく』に書いている。

「牛山プロデューサーはこのシリーズ(註:「すばらしい世界旅行」)に、一般のテレビ番組では考えられない画期的な制作方法論を持ち込んだ。
(1)少人数のチームによる長期取材
(2)ディレクターの地域担当制
(3)1年のうち半分は担当地域に定着する。
である」

私が第二制作部に出入りさせてもえるようになったのは70年代後半。北極圏、ヒマラヤ、ニューギニア、アフリカなどを専門に担当している、風貌からして個性的なディレクター達の助手についたのだ。
現在のように、インターネットで情報を集めることもできず、コーディネーターという便利な現地案内人もいない時代だった。
ディレクターが身一つで現地に飛び込み、情報を集め、人間関係を構築し、協力者を見つけ、徐々にドキュメンタリーの骨格が出来上がっていく。ゆうに半年はかかる作業だ。
1978年、私は演出助手としてインド・チベット圏ラダック地方の取材に参加した。第二制作部の仕事だ。標高4000メートルを超える高原をおんぼろジープで走り回ったすえようやく撮影現場が決まる。
だが、撮影は始まらない。取材地集落の各家庭の家族構成、作物、家畜の頭数、田畑の面積、親戚関係、共同作業の役割分担、冠婚葬祭の日取り云々の細かい調査。
村の地図を作り、太陽太陰暦のチベット暦を1日1日確かめながら太陽暦に換算して、ようやく主要な行事の日程が判明する。5日間調査し、2日間撮影するという、テレビ取材というよりはまるで人類学調査のような生活が10月から5月にかけて7ヶ月間。
終わってみれば、世界初のラダック越冬取材となった。
こういうことは、ごく普通のことだった。テレビジョンという言葉は、「テレ」と「ビジョン」という2語からできている。直訳すれば「遠く離れた視界」になる。テレビの原点は、遠くにあるものを映像化して観客の眼前に持ってくるという行為ではないだろうか。
当時のディレクターたちは、誰も見たことがない世界を映像に収め、お茶の間に届けるという単純なことに、持てる限りの知力と体力を費やしていた。皆、異境での発見を楽しみ、それを日本に伝える仕事に誇りを持っていたのだと思う。
昨今は、制作予算の大幅削減によって、2〜3週間の取材で90分のドキュメンタリーを作らざるを得ないテレビ業界になってしまった。しかし、もの作りをあきらめていない者がたくさんいることを知って欲しい。制約の多いテレビ局のなかで根気よく取材を続けている人達もいる。
そして、近年定着してきたのは、テレビ放送では飽き足らず、放送後も数年間自主製作で取材を続け、ミニシアターで公開する方法。もちろん大ヒットにはならないが、安定した観客動員を期待できるようになってきたと聞く。
伝えたいという気持ち、伝えることの誇りは失われていないと信じている。
 
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