「事実上、全部CM」なテレビ番組に規制はないの?

社会・メディア

藤本貴之[東洋大学 教授・博士(学術)/メディア学者]

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テレビ番組、特に情報番組やバラエティ番組などで、「注目の商品」「話題のサービス」を紹介している体を装い、実質、単なる「特定商品、特定サービス、特定企業のCM」でしかない地上波テレビ番組のコーナーは多い。

かつては、人気テレビドラマで出演者が着ている服や持っているアイテムなどに宣伝効果があり、いわゆる「タイアップ」として利用されるようなことは多々見られたが、近年ことに気になるのは「事実上、全部CMなテレビ番組」である。

タイアップやコラボといった、視聴者にもギリギリ理解されたものや通販番組の類ではなく、明らかに既存のCM概念の許容範囲を逸脱した「事実上、全部CMなテレビ番組=テレビ番組風CM」は少なくない。テレビ離れが著しい若者層からしてみれば、そのようなテレビ番組のあり方は当然なのかもしれないが、かつてのテレビを知っている筆者を含めた中年以上の世代からすれば、違和感は大きい。

先日、以下のようなテレビ番組があった。

冒頭で、ほんの少しだけノーベル賞関連の話題を出す。1分足らずであり、いわば話題を振るための導入に「ノーベル賞」という世界的な、そして公共性のあるキーワードが利用されただけである。分量的にはフリップ1枚だけの情報だ。

それに続き、複数のゲスト出演者のタレントたちに「みなさんがノーベル賞をあげたい、オススメの商品はありますか?」と問うコーナーへと突入する。出演者全員がフリップに企業名・商品名を書き、資料映像を加えつつ、詳細にその魅力を力説する・・・といったものだ。ご丁寧に現物までスタジオに用意されるケースもある。

ようはタレントが「この商品はノーベル賞をあげたいぐらいすごいんです!」とひたすらアピールする番組内CMである。冒頭のノーベル賞の説明とは違い、1つ1つの商品はじっくりと説明される。出演者とはいえ、いち消費者にはとうてい知り得ない制作裏話や、ことこまかな成分やメカニズムまでしっかりと説明し、その商品の魅力を余す所なく説明してくれる。

この番組を見て愕然としたのは、紹介される「ノーベル賞をあげたいぐらいすごい商品」がどれも、「ノーベル賞をあげたいぐらいすごい商品」でもなければ、高い公共性を有するものでも、最先端の科学技術の成果を反映させたようなものでもなかったことだ。誤解のないように書くが、それら商品が悪いわけではない。おそらく出品各社が自信を持つ良い新商品なのだろう。しかし、客観的で公益的な観点から、ノーベル賞級の商品としてテレビで紹介するほどの成果物かと言われれば絶対に違う。ごくごく普通の商品だ。例えCMだとしても、ノーベル賞というワードを導入に利用することが妥当だと言えるだろうか。

つまり「特定の商品をタレントが長時間、大袈裟に騒ぎ立てて紹介するCM」という、通常CMではできないような大型CMが番組という体を装い展開される、というだけなのだ。番組内のコンテンツの一部として放送されているため、通常のCM枠のようにチャンネルを変えられたり、無視されたりすることも少ないだろうから、広告主からしてみればものすごく魅力的な広告枠だろう。もちろん、筆者のように「どこがノーベル賞をあげたいぐらいすごい商品なの?」と真面目に突っ込む人に対しては「商品を選んだ出演者のセンスです」という言い逃れもできる。

私たち視聴者はテレビに少なからずある種の幻想を持っている。「テレビに紹介されることはすごいことだ」「テレビに出るぐらいすごいこと」「テレビは嘘はつかない」といった感覚だ。だからこそ、このような「事実上、全部CMなテレビ番組=テレビ番組風CM」さえも、「テレビ番組の一部=真実」として視聴してしまいがちだ。「テレビで取り上げられるぐらいなのだから、嘘ではないだろう」と信じる人は多い。

公共の電波を利用して、特定の商品のCMとは表明せずに宣伝することは、ルール違反だ。少なくとも、筆者が確認する限り、放送法(第12条)「放送事業者は、対価を得て広告放送を行う場合には、その放送を受信する者がその放送が広告放送であることを明らかに識別することができるようにしなければならない」には違反しているのではないか。

もちろん、業界ルールである日本民間放送連盟放送基準が定める禁止行為としても、以下の各項には抵触している。

(14章92) 「広告放送はコマーシャルによって、広告放送であることを明らかにしなければならない。」
(15章122)「視聴者に錯誤を起こさせるような表現をしてはならない。」
(15章126)「ニュースと混同されやすい表現をしてはならない。特に報道番組のコマーシャルは、番組内容と混同されないようにする」

しかも今回のケースは「ノーベル賞級」というおまけまでつく。間違いなく事実に反した放送だ。低偏差値の大学を「東大級」として紹介するようなものだ。

「事実上、全部CMなテレビ番組」の存在は、単に「公共の電波の濫用」だけにとどまらない。いわば公共の電波とその枠をお金に売っているわけであり、日本の公共財は個人や企業が「売れる・買える」と言っているに等しい。究極的には国防や政治にも関わる問題さえ孕むだろう。

「公共の電波」の所有者はテレビ局ではない。電波とは、人類が共有する限られた資源、いわゆる「公共財」である。特定の誰かが支配したり、独占して良いものではない。これはメディア分野においては、もっとも基本的な認識だ。

[参考]CMと本編の区別がつかないテレビ番組の存在意義

今年の6月に、自衛隊や米軍基地、原子力発電所近辺など、安全保障に影響する恐れがある土地の取得や利用を規制する「重要土地等調査法」が成立した。これは「外国資本でも誰でもが自由に日本の土地をどこでも買える」という状態を阻止することを念頭においているはずだ。

同様に、演出によって番組自体をCM化するという巧妙でテクニカルな「公共財の売買」にも法的な規制をすべきであるように思う。もちろん、規制だけでどうにかなる問題ではないので、「事実上、全部CMなテレビ番組」の存在を知り、その現実を通して、私たち視聴者・消費者が「公共の電波」とはなんなのか? という理解を深めることも必要だろう。

いわゆる「CM放送枠」にはさまざまな規制があるが、本稿で紹介したような「番組もどきCM」は野放し状態であるように思う。たまにBPO(放送倫理・番組向上機構)関連で話題になることはあっても、大きな社会問題になることもなく、雲散霧消している印象だ。この辺りも外国資本による土地の取得と似ている。

もちろん、このような番組が濫造される背景には、縮小するテレビ市場の中で、テレビ業界が収益(広告収入)を上げるための苦肉の策であることはわかる。むしろ、できるだけ自然な形で規制にひっかからないようなスキマをかい潜って「事実上、全部CMなテレビ番組」を作り出すような制作者ほど、敏腕ディレクターであるのだろう。おそらく、そういう番組を生み出すプロデューサーこそ、テレビ業界では出世頭になっていることは想像に難くない。

筆者が大学教員になったばかりの15年ほど前は、メディア関連の授業をした際にアンケートをとると、どの授業でも8割方の学生が「テレビ業界に行きたい、放送業界に行きたい」と手をあげたものだ。しかし、2021年現在、200人を超える学生たちのアンケートしても、将来の進路としてテレビ業界に興味を持つ学生は数人に満たない。「明確に志望している学生」となれば、1、2名ではないだろうか。

若者にとって、テレビというものが「情報源として選択するメディア」の一つになえりえなっているだけでなく、職場や将来の選択肢からも抜け落ちつつある。そりゃそうだ。「全部CMなテレビ番組」を作ることを生涯の仕事にしたい考える大学生など、優秀であればあるほど、多くはあるまい。

言うまでもなく、地上波テレビはやがてネットに吸収される。お茶の間からテレビ受像機は消え、スマホやパソコンのマニターに切り替わる。そうなれば、地上波とネット放送、動画配信の区別はなくなり、同じスタートラインに立たされることになる。これが意味することは、テレビ局が「いちYoutuberになる」ということだ。そしてそれはすでに始まっている。

ネット動画を紹介するテレビ番組や、ネットの話題を後追いしているだけの地上波テレビ局が「いちYoutuberになる」になった時、視聴者はわざわざアクセスするだろうか。実際、ネットに同時配信されている地上波テレビ番組の視聴者数が驚くほど少ないことに驚かされることは多い。ましてや「全部CMなネット動画」を見てくれる奇特な人はいるだろうか。

現在、テレビが持っている価値とは低下したといえ、まだまだ残る「信頼感」だ。「テレビに出た」「テレビにで紹介された」ということがまだ小さくないパワーを持っている。その価値と信頼があるうちに、「事実上、全部CMなテレビ番組」を規制しなければ、日本のテレビメディアはもとより、「いちYoutuberになったテレビ局」の未来は想定されるよりもはるかに暗い。

 

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