テレビの報道番組をエンターテインメントにしてしまった罪
高橋秀樹[放送作家/発達障害研究者]
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現在のテレビ報道番組をエンターテインメントにしてしまった罪は、筆者にもその一端がある。お前ひとりごときでそんな影響力があるかと言う声も、聞こえてきそうだが、一端なら、やはりある。
なぜ、報道をエンターテインメントにしようと思ったか。堅い伝え方では、決して一般の人々(ニュースに関心のない、世の中の90%くらいの人々)には伝わらないからだ。たとえば新型コロナウィルスの情報に関して言えば、Google Scholar (グーグルスカラー)という、世界のあらゆる学術論文を検索するサーチエンジンに「covid 19(新型コロナウイルス)」と、打ち込むと、あっという間に118,000 件がヒットする。情報のすべて近くがここにある。だが人々はこんなところで新型コロナウイルスのこと知ったりはしない。それよりずっと軟派なテレビ朝日『羽鳥慎一モーニングショー』の白鴎大学・岡田晴恵教授やテレビ朝日報道局員の玉川徹氏から、情報を得るのである。知識は教科書からは得ない、マンガから得るのである
かつて、筆者は報道をエンターテインメントにしようと思った。
全盛期のビートたけしをキャスターにして『報道スクープ決定版』(TBS)をやった。このときは、普通のことしか言わないコメンテーターは出さないことにした。衝撃映像で視聴率を狙うのはやめることにした。やって来た田中真紀子とビートたけしのトークは、結局大しておもしろくなかったが、何を話すのか、2時間。ドキドキはしどうしだった。
大橋巨泉キャスターで『報道スクープ特大版』という番組もやった。コメンテーターは筑紫哲也だったが、彼が早稲田大学では大橋巨泉の後輩だと耳打ちすると、巨泉は番組中、筑紫哲也を「筑紫!」と呼び捨てにした。ふだんはこんなことはあり得ないので緊張感が漂う。
『ブロードキャスター』(TBS)で隠れているが優れた日本企業の特集を企画したことがある。意図は視聴者の「がんばれニッポン」の心をくすぐることである。「がんばれニッポン」は、案の定、視聴率を取る。だから、2020東京オリンピックの「がんばれニッポン」に騙されてはいけない、2020東京パラリンピックの感動ポルノに乗ってはいけないと思えるようになった。
『スペースJ』(TBS)という報道番組をやった、最初のキャスターはNHKを辞めたばかりの福島敦子だった。しかし、彼女は狙いすぎだった。自分の意見が無いのである。そこで、キャスターは無味乾燥だが進行は抜群にうまい山本文郎になった。そんな時のオウム事件(1995年)が起こった。番組ではオウム事件だけをやった。オウム、オウム!オウム?の連射、定時報道番組としては異例の30%越えを連発した。ある週には日本で一番の視聴率を取った。TBSのオウム特番は無数に構成下した。もう数が分からないくらいだった。
同じくTBSで『みのもんたの朝ズバッ!』を構成した。ある人に「ニュース番組をみのもんたでは、やりたくない』と言われた。筆者も同じ気持ちだった。だから、芸能ニュースは扱わないことにした。細かいニュースはほぼ捨てて、今一番関心のあることを出来るだけ長く、どんな手を使っても長く長くやることにした。2011年には東日本大震災が起こった。そこでは津波とフクシマの原発事故を徹底的に扱った。
報道番組をエンターテインメントにしてしまった罪の一端をにないながら、筆者がいつも横目で見ていたのは久米宏の『ニュースステーション』(テレビ朝日)であった。
報道番組になぜ構成者が必要なのだろう。報道番組はすでに「起こったこと」を知らせる番組だ。だが「起こったこと」を知らせるだけでは視聴率は頭打ちになる。番組は何かが「起こりそう」だからこそ、見続ける動機になる。何かが「起こりそう」であり続ける番組にするために、記者以外に構成者が必要なのだ。
そして、現在。
ストレートニュースはつまらないリードを書く記者しかおらず、キャスターニュースのキャスターには個性的な人が存在しない。情報系ニュースは、ボードの紙をめくってばかりである。
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