<美術モデル大学提訴に違和感>会田誠セクハラは「切り取り報道」?

社会・メディア

藤本貴之[東洋大学 教授・博士(学術)/メディア学者]

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京都造形芸術大学で開催された公開講義で、登壇講師である美術家・会田誠氏らの発言や作品がセクハラであり、それによって急性ストレス障害を発症したという受講生の美術モデルの女性が大学を提訴した騒動。受講者女性は、会田氏の作品が猥褻か芸術かは争点にせず、「不快な環境を作り、十分なセクハラ対応をしなかった大学」を訴えている。

一方で今回提訴した受講者女性の手法に違和感を感じる人は少なくない。

「悪いのは作家(人)ではなく、大学(組織)」というのはよくある話である。しかし、受講者女性による提訴の会見を見る限り、基本的には会田誠氏を中心とした作家と作品への批判を展開しているように感じる。それでも提訴の矛先は「セクハラ講師を雇用し、そういう講座を運営した大学」という流れである。

「大学はセクハラを認めながらも、今後、大学に一切関わりを持たないように圧力をかけてきた」という点に怒りを覚えたというものの、結局は、会田氏をはじめとした講座に起用された作家と作品に強い不快感を覚え、批判している。

この「悪いのは作家(人)ではなく、大学(組織)」という主張は、一見、妥当に見えるが、今回のケースに関しては、かなり無理があるのではないか。そしてここには「切り取り報道」の手法を使った、「論点のすり替え/すり替わり」が起きているように思う。

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まず、セクハラとして問題視されている「美術モデルをズリネタにした」という発言。フレーズのインパクさもあり、今回の騒動のキーワードにもなっている。発言の状況を見ているわけではないので憶測でしかないが、会田氏のTwitterの読む限り、「モデルをズリネタ」発言も話の流れや文脈があってのことで、「現役美術モデル」である受講者がどう感じたのかはさておき、会田氏がモデルを冒涜する展開での発言ではないように思う。

一般的に、クリエイティブな活動をしている作家が、自分のメッセージをよりわかりやすく、直接的に伝える方法の一つとして、意図的に過激な言葉、ゲスな言葉を使うことはよくある。その方が見てる側、聞いている側にも伝わりやすいからだ。「セクシー女優」よりも「AV女優」、「アダルト雑誌」よりも「エロ本」の方が伝わりやすいのと同じだ。

一方で、「モデルをズリネタ」というフレーズだけが「切り取られ」て発表され、急性ストレス障害の原因として報道されてしまえば、話の流れや文脈、作家としての伝え方・表現方法は全て取っ払われて「単なる卑猥フレーズ」として一人歩きしてしまう。少なくとも、議論の是非さえなくなってしまうことは間違いない。会田誠氏への弁明の余地を許さない一方的な非難にもつながる。

もちろん、近年の社会状況を鑑みれば、人前で話をする人物が、その言動に細心の注意を払うべきは、厳守すべきルールである。誤解だとしても、誤解を受けるような発言が慎まなければならない。その点では会田氏にも多いに非がある。

しかし、だ。

受講者女性はそのような「切り取り報道」的なテクニックで会田氏ら登壇作家と作品の批判を中心とした記者会見をしつつも、提訴しているのは大学だけである。会田氏を「吐き気しかしない」とまで辛辣に批判しつつも、「悪いのは作家(人)ではなく、大学(組織)」であるとし、敵設定にはしていない。

「講義の内容が本当にひどいもので、これが大学の授業なのかと衝撃」を感じ、「デッサンに来たモデルを『ズリネタにした』と笑いをとっていたのは、プロのモデルに対する冒涜」と感じたのであれば、まずは「会田誠のセクハラで精神的苦痛を味わった」という立ち位置から会田誠氏を訴えるのが筋ではないか。

「芸術論にしたくない」という理由で作家と作品の是非を問わず、大学を訴えるというのは、筆者には「論点のすり替え」に思える。「モデルをズリネタ」という発言は「切り取り」をすれば、十分にセクハラ発言に該当するのだから、芸術論とは無関係に、急性ストレス障害の原因となったセクハラ行為として提訴できるではないか。

会田氏の講義と言動と作品を「本当にひどい」と批判をしているにも関わらず、「芸術論にしたくない」という理由で、「会田誠」ではなく「会田誠を雇用した大学」だけを標的にするのは不自然だ。

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誤解を恐れずに勘ぐった私見を書いてしまえば、受講者女性は会田氏を「敵設定」にしたくないだけなのではないか。会田氏とその評価や支持層に対して忖度をしているだけではないのか。つまり、会田氏を批判するにせよ、もし、直接的な敵対関係になれば、自分も同様に「叩かれる」可能性がある。それは避けたい。しかし、その対象が「大学」であれば、会田氏との直接対決というリスクを負うことなく、講座の「酷さ」を告発という形で間接的に会田氏とその作品の「叩く」ことができるからだ。大学が今日、外部、特に学生や受講者からの批判や苦情には非常に弱く、敏感であることは周知だろう。

そして、どのような結果となろうが、こういった問題が起きた以上、京都造形芸術大学としては今後は会田氏の起用は控えるだろうし、他の大学だって慎重にならざるを得ない。それは結果的に、会田氏から大学という活動の場所を奪う外圧となる。

これは大学が相手であれば、登壇講師を追い詰める手法としては効果的な方法であるように思う。もちろん、そのぐらいのことで、会田誠氏の美術家としてのブランド力が影響を受けるとは思えないが、大学業界的には、会田誠が「声のかけづらい作家」になってしまったことは事実だ。

もちろんこれは筆者の憶測でしかないので、それに対する賛否は読者に委ねるが、少なくとも筆者にはそのように感じられた。そして、もしそうだとすれば、そこには大学と学問、大学と芸術のあり方を揺るがす大きな問題も内包している。

こういった騒動が起き、裁判などに発展する事件が多発すると、大学の最大の魅力である「自由な研究」「多様な思想」に基づく、教員・研究者たちの「自由な発言」に過剰な自己規制がかかってしまう。もちろん、時代に合わせて自主規制も必要だが、「訴えられる危険性があるなら、何も言わない、出さない」という雰囲気は、大学の存在価値自体を失わせかねない。

特に、芸術と猥褻、芸術と差別、芸術と政治など、社会的な批判と表現の境界線上で展開される「芸術論」によって新しい試みが模索されるのが「芸術」だ。美術大学は「過剰な自主規制」には特に慎重にならなければならないし、それに伴う作家の表現や言動に対しても、一般的な大学とは異なるべきなのだ。

会田誠氏のようなセンセーショナリズムを特徴とした作家を積極的に扱ってゆくことこそ、一般大学にはできない美術大学の役割でもあることも忘れてはならない。

 

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