<伝え方の難しさ>テレビが真実を伝えたら、視聴者に真実として伝わるのか?
高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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筆者がNHKで、その進行テクニックを最も高く評価しているのが小野文恵アナウンサーである。その小野アナウンサーにして、小野アナウンサーだからこその発言が、「週刊 ニュース深読み」の中であった。
この日のテーマは福島原発事故によって避難を余儀なくされた子供たちが見舞われている、いわゆる「原発非難いじめ」。議論は原発避難の実情がきちんと伝わることが必要であると言うことに及ぶ。そこでの小野アナの発言である。
小野アナは非常に言いにくそうな表情である。
小野「でもここでひとつだけ言わしてください。(メディアが)伝えたら、伝わるのかなっていうこともあるんですよ。本当になんかこんなこと、工夫が足りないって言われればそれまでかもしれませんがこの、まず、見てくれる人が少ない」
小野「そして 放射能汚染が伝染るなんてことはありませんよって伝えても『それが本当なんですか?』って、『本当のこと言ってないんじゃないか』って言われたりします なんかそこはどう・・・なんかやっぱりどこかに・・・。確かにマスコミの責任はあると思うんですけど、もうちょっとなんかマスコミを離れて自分自身の中にも答えを探したいなと思うんですが」
小野「(見ている人にも)知りたいっていうことがないと、伝わらない」
伝えたい情報が、熱砂に吸い込まれる水のように伝わっていくケースはある。受け手がその情報を熱望しているときである。
たとえば、鎌倉時代・仏教の宗教改革とも言える、法然の唱える「専修念仏」である。法然はこれまでの国家鎮護の仏教が、公家など、自ら寺を建立できる富裕で高貴な人物しか救わない、としていたところを、逆転させた。「南無阿弥陀仏」さえ唱えれば、誰でも、いや、悪人こそが極楽で往生できると言う教えである。
【参考】<NHK取材の快挙?>週刊文春記者が「文春砲の伝える意義」を問われ、しどろもどろ
この教えを心から欲している人々がいた。農耕が基本の時代に合って仏教の不殺生戒を犯して日々の暮らしを立てていくしかない漁労、鳥獣捕獲に従事する人々である。いわば化外の民である。学問せずともよく、寄進せずともよく、念仏で極楽往生が叶うとの教え(情報)は瞬く間にしみこんだ。
16世紀、カソリックの教えを日本で広めたイエズス会のザビエルもまた同じ。
彼らのカソリックはローマ教皇を、トップに頂く旧来のカソリックとは違い、富よりも清貧を、傲慢より謙遜を主なる考えとする異端のカソリックであった。インドのゴアを中心に始めた布教はヒンドゥー教ではカーストの外に置かれた不可触賤民に瞬く間に伝わり、日本においてもまた、イエズス会の教えを満を持して待っていたかのような、いわゆる棄民に浸透して行く。
法然も、その後の親鸞、道元、蓮如もザビエルも、「自分たちが伝えたい情報」を「欲する人に伝えた」ということが出来る。しかも。この情報は受け手が受け入れやすいように変容したものであった。ならば容易に伝わる。
鎌倉時代の新仏教も、イエズス会のカソリックも、身分制度で成り立つ時の権力者にとっては、これを崩壊せしめる、危険な思想であり。弾圧を受ける。もちろん、受け入れたくない」弾圧者側には教え(情報)は伝えようにも伝わらない。
まさしく小野アナが言うように「知りたいっていうことがないと、伝わらない」のである。
情報は伝えたい人がいて、欲する人がいなけれ伝わらない、と言う前提にたてば、欲する人のみに向かって伝えるという方略が考えられる。しかし、これでは伝播力が弱い。ならば、メディアには正しく情報を欲する人たちを作るという役割も課されるのではないか。
その伝え方を考えるにあたっては単純化でもなく、アジテーションでもなく、繰り返しでもなく、ましてや興味本位になびくようであっては決してならず、見せんが為の質の低い引っぱりなどは論外である。
ただし、具体的なことになると、今のところ筆者は思いついていない。
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