<続・生きてやろうじゃないの!>東日本大震災と被災者家族の記録(5)ディレクターとして78歳の母にカメラを向けた意味
武澤忠[日本テレビ・チーフディレクター]
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今回の震災に遭い、テレビカメラの前でインタビューに答えられる人たちは、全体から見ればほんの一握り。多くの人が、それどころじゃなかったり、「うちなんか、他所に比べて被害は浅いから」と嫌がったり。
そしてマスコミは、(自分を含めて)どうしても「被害の大きい」所ばかりに目が向いてしまう。しかし、一見被害が小さい一軒一軒それぞれに、それぞれの苦悩があることを見過ごしては来なかったか?
「被害の大きな」ところにばかり目を奪われ、大切な何かを見過ごしては来なかったか?世にでない「声なき声」の中にこそ、「被災地の本当のリアルな本音」があるのではないか!?
この未曾有の災害の当事者を、「母と息子」という距離感で記録し、その真実を伝えることが、いまの自分に課せられた使命なのでは?
番組になるかどうかはわからないが、とりあえず僕は「記録」としてカメラを回すことを決意した。震災の記憶を語り継ぐためにも、風化させないためにも、それが、実家が被災したテレビディレクターの務めであるような気もした。
そして筆者は一本の企画書を書く。タイトルは「ディレクター被災地へ帰る」。
カメラを回し始めた当初、母はとても嫌がっていた。
「他にもっとひどい被害の人たちがいっぱいいるのに、被災者ぶって画面にでるなんておこがましい」
と固辞した。しかし、
「被害が大きい所だけ目を向けてたら真実は伝わらない!」
と僕も食い下がった。震災から2ヶ月が過ぎたころ、母を伴って母が育った新地町へ車で行った。海から延々流木や瓦礫が流されて、畑は埋め尽くされていた。美しかった田園風景は凄まじいまでに一変していた。
満州で生まれ、この福島の地へ引き揚げてきたのは母が13歳の頃。故郷の無残なまでの変貌に、母はぽつりとこうつぶやいた。
「ある意味、戦争より怖いよ。戦争は憎むべき相手があったけれど・・・天のしたこと、憎みようがないじゃない」
そのとき、返す言葉は見つからなかった。
その頃、母は津波で半壊した実家を、毎日片付け続けていた。玄関には市役所職員によって「立ち入り注意」の黄色い紙が貼られていたが、泥に埋もれた部屋を少しずつ片付け、捨てるものと使えるものをより分けたりするのが、唯一の母の生きがいでもあった。
「何とかお父さんのご位牌を置けるようにしなきゃ。それがお母さんの務めだもの」
築50年。家族の思い出がしみついたこの家を、このままにしてはおけない。母は東京に来ることも拒否し、「この家に嫁いだんだから、ここで死ぬよ」と口癖のように言いながら、来る日も来る日も片付け続けていた。
そんな母の姿にカメラを向けながら僕は、なんとか早く元気になってほしい、と願わざるを得なかった。
しかし、そんな生活にも終止符がうたれる。「半壊状態」だった我が家は「放置していては危険」という行政の判断から、「解体」が決まった。
震災から7か月。2011年10月のことだった。
(※本記事は全10回の連続掲載です)
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