<続・生きてやろうじゃないの!>東日本大震災と被災者家族の記録(4)生きる希望を失った78歳の母が書いたチラシの裏の震災日記

社会・メディア

武澤忠[日本テレビ・チーフディレクター]
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ようやく仕事に一区切りついて帰省したのが3月末。高速道はまだデコボコのままで、深夜の高速バスは、時折激しく跳ねながら、故郷へと向かった。
やがて目に飛び込んできた信じがたい光景に愕然とする。道路の脇に、数えきれないほどの流された車や破壊された家の残骸が散乱している。瞬間、自分の中で何かが音をたてて壊れた。
以来しばらく、何を見ても涙はでなかった。涙を出す機能すら、破壊されていたのかもしれない。
実家に帰ると、母は思いのほか元気そうだった。随分と気を張っていたのかもしれない。一緒に家の様子を見に行くが、床上まで津波が押し寄せ、濁流で畳は見えなくなり物が散乱、壁は崩れかけ、確かにとても住める状態ではなかった。
震災のわずか3ヶ月前に事故で亡くなった父が大好きだった「昼寝用」のソファーも、無残に泥だらけとなっていた。

「お父さんはこんな姿見ないまま逝ってよかったね。大好きだったこの家のこんな無残な姿、見たらさぞかしショックだったでしょ・・・」

力なく母がつぶやく。今回の津波で辺り一面は瓦礫にまみれ、親戚がひとり流されて死んだ。そのお婆さんの娘さんも、行方不明のままだった。(のちに死亡が確認された)

「命助かっただけ良かったね・・・」

とりあえずかける言葉が見つからず、僕がそうつぶやくと、母は否定するようにこう言った。

「命助かって良かったんだか、どうだか・・・この年で(当時78歳)家がこんな風になってしまって・・・これからの苦労考えたら、いっそ一気に逝った方が楽だったんじゃないか、って思うときあるよ。お父さんを見送る役目は終えたんだから、いま余震が来てつぶれたって・・・もうどうなったっていいよ。命なくした人たちには申し訳ないけどね・・・」

50年連れ添った夫に先立たれ、意気消沈していた矢先の今回の震災。母は、明らかに生きる希望を失っていた。

「このままではまずい」

長男として何とかしなければならないが、今の自分に何が出来るのか。その時、答えは見つからなかった。
その夜、近所に住む姉夫婦の家に僕も泊まらせてもらった。救援物資や水のタンクなどが散乱する中、ふと足元にあるスーパーのチラシに目をやった。
その裏には、母が何かを書き綴っていた。

「3月11日・・・

 あの時猛り狂い 咆哮し 大地を襲った海は 本当にこの海だったのか

 今は静かに潮騒の中に 白い小さな波頭が見えるだけ

 悠々と流れていく雲よ お前は何を見ていたの

 小さな蟻のように 人々がもがき苦しむさまを 黙って見ていたの?」

見た瞬間、頭をハンマーで叩かれたような衝撃をおぼえた。そこには、誰にもぶつけようのない憤りや苦悩が、赤裸々に綴られていた。
チラシの裏にとどまらず、孫の学習ノートの余白などにも、母は誰に読ますためでもなく、自分の想いを綴っていた。
(以下、母の震災日記の抜粋)

「きょうも廊下のキャビネットから写真を出して ヤクルト時代(パート時代)の思い出の写真を見ないで捨てた 私の半生の思い出が いっぱい詰まっていたのに。一枚ずつ見れば あれもこれも想い出してしまうから 思い切ってゴミの中へ どうせ私が死んでしまったら唯のゴミに過ぎないのだから」

「相変わらずの放射能騒ぎ 福島県産 野菜 牛乳 不買決定。泣くに泣けない四次災害ではないか。牛乳が飲めないでどんどん捨てられていく 胸が痛む」

「腰は痛いけど 薬もなくなってきた どうしよう 」

その震災日記を読みながら、自分の中で沸き立つ何かを感じた。
(※本記事は全10回の連続掲載です)
 
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