<テレビ制作者に必須な「謝る能力」>無縁仏の墓を崖下に投棄するシーンの放送についた怖すぎるクレーム

テレビ

高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]

 
テレビの番組を作るために謝る能力が必要だとかねがね思っている。
このことを教えてくれたのはもうリタイアされた元局員のプロデューサーだ。謝ることを厭わなかった。厭わなかったから、番組の制作意図を曲げずにすんでいた。
通常、謝る事がいやだから曲げてしまう、あるいは謝らずに大事(おおごと)にしてしまう。謝るには能力が必要だ。まず人の話を聞く能力、どこまでの問題なのか、何が悪いのか、その判断がついてないと、謝る事が出来ない。そして決定力、ではどうしたら良いのかこれは帰ってから相談では出来ない。何で相談する相手が来ていないのかということになる。
謝ることになるのならそんなネタはやらなければ良いではないかという思いを誰もが持つだろう。しかし、物事には利害がある。一方だけでは見ることは出来ない。
お墓の取材をした時の話。
寺にとって困るのは実は無縁仏であるそうだ。10年も20年も誰も訪れない墓である。実際には40年、50年と経つ墓さえある。子孫が絶えたというケースもあるが、遠方に越すことによって誰も来なくなる墓が非常に増えているということだった。改葬は法律によって厳しく制限されている。
長い期間誰も訪れない墓があると寺はさまざまな手段で縁故者を探す。故人の本籍地もそうだが、2種類以上の全国紙に公告を出す。小さな活字で書かれた公告を見た人もいるかもしれない。一度ではいけない。三度出さなければならない。
これでも承継者がいなければ無縁仏となり、改葬が許される。取材は魂抜きの供養を撮影し、そのあと墓石は撤去され、墓石の業者が運び出した。墓石はそのまま数時間もかけてトラックで運ばれ捨てられた。崖から落ちていった。
このシーンに寺からクレームがついた。
寺に謝りに伺ったとき、なぜ、クレームをつけてきたのか、詳しい事情はわからなかた。全て寺側の了解を取って取材していたからだ。
丁重に部屋に通され、そこで正座をすることになった。住職はなかなか来なかった。いつ来るかわからない、正座を崩すわけには行かない。40分ほど経っただろうか、やっと現れた住職は静かな方だった。それからの話し合いは脂汗が出るほど長く感じた。だが、怒りは解けなかった。
二度目にお邪魔したときには条件が出てきた。数千の檀家が全国にある。その一軒一軒に謝ってきてくれということだった。出来るはずもない。長い正座だった。
三度目にお伺いしたときにはこれまでと違う部屋に通された。椅子がある。これまでの二回とも話しが終わったときにしばらく全く動けないほどしびれていた。まさか住職の前で窮状を訴えるわけには行かない。まだ当時はやせていたから少しは耐えられたのかもしれない。最初からこの部屋に通してくれればと思ったがそんなこと言えるはずもない。
結局、この日許された。
ただし、取材した石材業者とは今後取引はしないということを告げられた。
後日、石材業者にも謝りに行った。いつもやっていることだ、仕方のないことだ、と怒っている様子もなかった。取材がきっかけになっての取引停止は謝る他ない。この方も優しい方だった。
住職は一度も墓石が寺を出たその先を見たことがなかったのかもしれない。あるいはナレーションで「墓が泣いている」と表現したことが逆鱗に触れたのかもしれない。
しかし、実際には交渉の方法もなかった。決裂する方法はいくらでもあったかもしれない、ただし、それはあまり意味のないことだ。仮に檀家の家に行って何を謝るのか、(断りもなしに取材したというのか、嫌がるのを取材したというのか)そのことは住職もわかっていたことだと思う。
必要なことはただ時間だけだったのかもしれない。決着させないことがまず大事だったのではないか。何で許したのかといつ非難が来るのか、警戒していたのかもしれない。だとすれば脂汗が出るほどの正座も無駄ではなかった。
冒頭紹介したプロデューサーはこのあと「謝る精神」で長寿番組を作り上げた。その番組は代が変わったが今も続いている。
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