<東京キー5局に女性役員が一人もいないのはなぜ?>「女というものは」「男というものは」という考えに潜む間違い

社会・メディア

高橋秀樹[放送作家]
***
「女というものは」とか「男というものは」という言い方がある。こうしたグループ分けには非常に「恣意的なモノ」がある。「使用者の都合の良さ」だけを考えて使っているからだ。
「グループ分け」は、「分けるサイズ」が大きければ大きいほど、いい加減な分析になる。「地球人というものは」・・・なんていう「グループ分け」が行われたとしたら、いい加減すぎて、それによる分析などはできないだろう。
この「大きいグループ分け」に、多くの「間違い」があることは誰もがわかっている。もちろん、「グループ分け」をしたところで、そこに所属する人々が全て同じ考えをしていると判断することも「間違い」であることも明白だ。しかし、それでも便利だから使っている。
「サラリーマンの妻、専業主婦というものは」 「高齢者というものは」「被災者というものは」 「イジメられたものというものは」 「障害者というものは」 「借金を抱えている日本国民というものは」 「非正規雇用者というものは」 「3流大学卒業者というものは」 「働く女性というものは」・・・。その数を浮かべればきりがない。
ところで、

「働く女性というものは」

・・・を考えた時、すぐ思い浮かぶのは安倍政権がすすめる「女性登用促進で 女性の輝く社会」をつくろうという理想である。この根底にはあるのは、

「女性というものは・・・働きたがっている、働く環境を整備してほしいと思っている、男性並みに昇進・昇給したいと思っている」

などの考えだろう。そのために、「待機児童対策などは喫緊の課題である」とする。しかしこのことで、奇妙なことに気がついた。これまで、日本の託児所(保育所)がもっとも充実していたのは「太平洋戦争の戦時下」であったそうだ(『日本児童保育史』日本図書センター)。充実の理由は、もちろん「銃後の日本での女子労働力確保」である。
昨今の待機児童対策も似たような部分がある。「少子化対策」などもあるだろうが、つまるところは「女子労働力の確保」である。いや、「女性の働きやすさの確保」であるという意見もあろうが、戦時下と現在における、この奇妙な符合には注視しておく価値はある。
内閣府男女共同参画局によれば、

我が国では、『社会のあらゆる分野において,2020年までに、指導的地位に女性が占める割合が、少なくとも30%程度になるよう期待する。』という目標(平成15年6月20日男女共同参画推進本部決定)の達成に向けた様々な取組が行われてきた。

・・・であるという。本稿執筆時点(2014年11月3日)の男女共同参画担当大臣は選択的夫婦別姓制度の導入に反対で、妊娠中絶に反対の有村治子参院議員(44歳)である。
このように、性別や民族を基準に一定の人数や比率を割り当てる手法を「クオータ制」という。このクオータ制の導入も検討されており、政治分野におけるクオータ制、科学研究者のクオータ制、公務員(特に警察官)クオータ制、企業におけるクオータ制などの例が挙げられている。
アメリカは何割かの少数民族を大学に優先入学される制度が行われ、逆にそこに当てはまらない多数派から不公平だとの反対権が上がったこともあった。
人口の50%は女性なのだから、いろいろなところの比率は、たとえば、企業の女性の役員の比率は50%にすべきだ、という理屈は非常にわかりやすいが、ここにも「間違い」は潜んでいないのか?と思う。例えば、企業の役員の比率で考えてみよう。
「女というものは」「男というものは」というグループ分けによるあまりの大雑把すぎる分類による決めつけは、「間違い」であることを強調した上で、筆者の考えを述べる。

「企業では男も女も関係なく、実力のあるものがなればいいのである。しかしその企業のトップにあるものは男なら、女を、女なら男を、上に引き上げることを常に考えるべきである」

ちなみに日本最後(?)の護送船団業界である放送界。日本テレビ、テレビ朝日、TBS、フジテレビ、テレビ東京・・・東京キー5局に女性役員は一人もいない。実力のある女性がいないのだろうか?
最後にひとつお笑いを。ワイドショーで、殺人犯はどいう人物か聞かれた、コメンテーターの元・捜査畑のTさん。

『うーん、それは男か女ですね』

【あわせて読みたい】