<過去最多、女性閣僚!こそ「政界のガラパゴス化」の象徴?>「女性閣僚の数」に注目するメディアの報道こそが「性格差」の表れ

政治経済

水野ゆうき[千葉県我孫子市議会議員]
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「第二次安倍改造内閣、過去最多5人の女性議員を閣僚に起用」、という文字が新聞各紙で、テレビで躍った。
相変わらず女性の「数」が見出しとなる日本の報道。いちいち女性の数が大きなニュースとなる不思議な国だ。このこと自体が「性差」を表しているとしか思えない。決して「男性何人」と報道されることはない。また、男性議員の場合は成功や失敗は個人名であるのに対し、女性が成功すると「女性で成功した」、失敗した場合は「だから女性は駄目なんだ」と一括りにされる雰囲気があることも実感している。
この手法は日本における男社会の言い訳にすら聞こえる。そしてメディアの報じ方も世論を助長している。
今回の内閣改造での目玉はやはり女性議員であった。もちろん、同じ女性として、政治家として、素直に喜ばしいことでもある。ただ立ち止まって考えてほしいこともある。そもそも国会議員では男女の分母が全く異なる。今回の安倍改造内閣の結果を見ても、数ありきで無理やり閣僚ポストを空け、そこに女性議員を押し込んだ感は否めなかった。
一方で、こうまでしないと女性が重要ポストに就けないという「政界のガラパゴス化」を露呈させたという意味では効果的であったかもしれない。政治家の役割は「国民の生活の充実」であり、その目標達成には政策面や政治面で女性の知恵や能力が必須である。当たり前のことだが、世の中は、男女比率は半々であるからだ。
つまり「閣僚の女性の数」の前に入口である「選挙」の時点で女性が多く出馬できる環境を整えることが先ではないだろうか。
社会インフラが整備されてない中で、元々数少ない女性議員の中から閣僚というポジションに無理矢理選んだところで、生理や出産・育児などの「仕事をしていく上でのマイナス要素」を抱える女性が、働きやすい環境が担保されるかと言えば疑問だ。せっかく有能な女性が重要ポストを与えられても、十分な活動・活用ができなければ、本末転倒だ。
もちろん、単に要職に女性を起用したからといって解決することばかりではない。
社会に出た時点で男女関係なく我々は一社会人であり、そこに性差があってはならない。ただ、目下の課題としては、現実的に身体的及び社会的な不利な女性の社会進出が、スムーズにいくようなインフラ整備と世間の意識改革は急務である。まさにこれらが前提となってはじめて男女平等と言える社会と言えよう。
今回の内閣改造において、本当に適材適所であったかどうかは今後、有権者がしっかりと注視をしていく必要がある。手段にばかり捉われ、この采配が適材適所でなかった場合、それこそ男女平等とは言えないのだ。
 
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