<私は如何にして脚本家になったか①>サラリーマンがホテルに缶詰になって書いたドラマ・ノベライズ
香取俊介[作家・脚本家]
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脚本家になりたい人は五万といるようだが、僕は「なるつもりはまるでなかったのに」脚本家になってしまった。こう記すと嫌みと受け取るムキがあるかもしれないが、本当である。
学生時代、ずっと小説家を目指していて、「若さ故の無知」から就職などしないで当時、若い人に圧倒的人気のあった大江健三郎や石原慎太郎のように「学生作家」としてデビューしたいと思っていた。
心の底では「でも無理かな、才能もないし」と思ってはいたものの、強い思い込みがあれば、なんとかなる。とにかく、小説を書くほかないよう自分で自分を追い込んでいけば、きっとなれる……と大した根拠もなく思っていた気がする。
しかし、小中学校時代、もっぱら漫画ばかりを読み、近所のガキ達と遊びまわっていて「文学的素養」などまるでない僕が、そう簡単にプロ作家などになれるワケがない。そんな簡単な事実に気づくまで数年を要した。「世間知らず」というか、甘やかされて育ったこともあり、どこか「甘い」のである。
自意識過剰のところもあるし、自分で自分をいやだなア、こんな性格で社会に出ても社会にでてまともに生きていけない、だったら拒否していた稼業(織物業)をつぐか……などと思い詰めたこともある。
大学卒業後、NHKにもぐりこめて、「一種の体験入隊」として、ここで社会や人間について学び、いつの日か「作家になるぞ」と密かに胸に誓った。しかし、文学のことをよく知れば知るほど、自分には無理かもしれない、だったら安定した職場に身をおき、傍ら小説を細々書いていくしかないとも思った。結婚し、間もなく子供もできたし、一家の支え手の「父」の役割を意識しないわけにいかなくなった。
僕の所属していた報道の某部は、共産圏取材の特殊な部署で、どうも仕事自体、面白くなく、僕にはあまり馴染めなかった。間もなく共産圏情勢の変化もあて、その部が廃部になったのを機会に、希望してドラマ部に配属となった。
文学・小説であったら人後に落ちない知識等はあったものの、高校・大学時代は柔道部で、大学時代は傍ら「ペンクラブ」という文芸サークルにも所属していて、もっぱら文学に淫していたので、映画も演劇も素養といったものはあまりないといってよいほどだった。
いってみれば「右も左も知らない」ドラマの現場に放り込まれたのである。僕なりに悪戦苦闘するうち、ある種のいい加減さの裏替えしである「柔軟さ」で、1、2年たつと、かなりドラマの空気に順応したのではないか。
「香取くんは、へんな人だね。まじめかと思うと、そうでもない。シリアスが向いていると思っているけど、案外コメディが向いているかもしれない」
と先輩のプロデューサーにいわれたこともある。
「早稲田文学」などに「純文学」を書いていたことを当初、隠していたのだが、いつのまにかわかってしまい、脚本家からも僕が「書く人」であるとわかって、ほかの人とはちょっと違った見方をされたようだ。
当時、角川書店の角川春樹社長(当時)が映画と小説の「メディアミックス」を実践し高収益をあげており、その余波で、ドラマのノベライズがはやりはじめた。僕は他のことはダメでも、文筆の才はあると思われたのだろう、NHK出版からドラマの上層部を通じてノベライズの仕事がきた。1時間連続のドラマ5、6回を1冊の小説にするのである。
文章を書くのは早いほうで、(純文学畑では当時否定的に評価されたが)読みやすいので、歓迎された。1冊目が好評でそれなりに売れた。
勤務時間外に一種の「アルバイト」でするのだが、ノベライズしたある作品がベストセラーになってしまい、以後、次々注文が舞い込んだ。勤務を終えてから時に渋谷のホテルに缶詰になって、鉛筆で早書きした。書き殴ったといってもよい。が、それがかえって読みやすく、わかりやすいということになった。
タイトルなどは控えさせていただくが、在職中に10冊ほど書いたのではないか。おかげで右腕の肘にガングリオとかいう腫瘍(良性)ができ、夜など右手がひきつって目が覚める。しばらくもんでいないと引きつりをおこす。病院で診てもらうと、ピアニストなどの手首によく出来る腫瘍で、それがシャッコツ神経にからんでいるのだという。腕の神経の使いすぎ、つまり原稿の書きすぎ(当時はワープロなどもなく原稿用紙の手書き)が原因だった。
切開手術をして腫瘍をとると、すぐに直った。また、昼はドラマの仕事、夜はノベライズの生活がはじまった。月の半分ぐらいは家に帰らず、渋谷のホテルに缶詰になって、ひたすら書いていた。
ノベライズながらホテルで缶詰になって小説を書いていて、自分の向かう道はやはりこっちだなという思いがますます強くなった。
当時、中断していた中央公論新人賞が復活し、第2回の募集をはじめた。新人賞に応募したことはなかったが、友人の女性の新聞記者から、「最終候補に良い作品がなくて困っているみたい。香取さんよかったら書いたら」といわれた。彼女は以前、同人雑誌を一緒にだした仲間だった。
聞くと、締め切りまで1週間足らず。出来るかなと思ったが、若さ故の向こう見ずからOKして数日徹夜して仕上げて送ったところ、最終候補4作に入った。(最初から残すつもりであったのでしょうね)
それ以前から、同人雑誌に書いた僕の短編は毎日新聞や神戸新聞などの同人雑誌評にとりあげられていた。(当時は大新聞の夕刊に同人雑誌評の欄があったんですね)。合評会ではたいていけなされるのだが、外部の評論家にはそれなりに評価された。それも僕の支えだった。
ところで、この賞の審査員は吉行淳之介、丸谷才一、河野多惠子の諸先生。当時、僕などには仰ぎ見るような「大先生」である。とくに吉行淳之介の透明感のある文体に惚れ込み、「驟雨」などの短編を何度原稿用紙に書き写したかわからない。舐めるように読んだといってもよく、手の脂でページが薄汚れるくらいだった。それほどのめりこんだ吉行淳之介に、ただ読んでもらえる、それだけで胸が高鳴った。
そして、生来のオプチミストから、吉行淳之介は自分と似た文体だからきっと評価してくれるはず、と半ば受賞した気になり、受賞の言葉をあれこれ考えたりしていた。
ほどなくして、編集長から連絡があった。4作の中ではもっとも評価が高かったが、今回は受賞作なしとのこと。その後、編集長に直接会って話を聞いたところ、「僕は香取さんの作がいけるかなと思っていたが、文体や運びが吉行さん(吉行淳之介)に似ているので、点が辛かった」とのこと。もう数日時間があれば、見直すこともできたのに、と思った。
30代半ばであったと記憶する。
次の作品にとりかかっていたときであったか、部長から呼ばれて、きみ、転勤になるから前もって伝えておくよと言われた。瞬間思った。転勤で地方にいったら、つかみかかったチャンスをつぶす。
「一日考えさせてください」
と答えを留保した。
当時、僕には専業主婦の妻と小学生の娘、幼稚園児の息子がいた。妻に、
「転勤だってよ、どこに行くか教えてくれなかったけど、東京を離れたくないな、どうしよう?」
と聞いたところ、妻はあっさりとこういった。
「いいんじゃない、やめても」
(その②に続く)
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