<カットされたキーとなる「あの台詞」>25年の時を経て映画化された漫画『ホットロード』(能年玲奈主演)に思う

映画・舞台・音楽

黒田麻衣子[徳島テレビ祭スタッフ]

* * *

『ホットロード』は、アラフォーの筆者世代が、中高生時代にハマリにハマったコミックスである。筆者も、すり切れるほど何度も何度も読んだ。
当時、もっとも映画化を望んだコミックスであり、今、映画化されることを最も「フクザツ」な思いで受け止めている映画である。当時、原作者の紡木たく氏は、熱烈な映画化オファーに対し、「Hは映画化しない」とコミックスの端にラクガキしてみせた。筆者世代は、この時に、『ホットロード』の映画化を諦め、永遠に幻となった映画『ホットロード』を脳内で映像化して楽しんだ。
25年の時を経ての映画化に、「今さら」という思いと、「待望の」という思いが交錯する。「待ちに待った」気持ちよりも「この作品の映画化だけは、幻のままにしておいてほしかった」気持ちが勝る。
このほど、監督が地元出身者だという縁で、舞台挨拶を兼ねた上映会が筆者の住む徳島で開催され、これも何かの縁かと考え、観に行った。あえて、原作を読み返さずに行った。
最後に原作のマンガを読んだのは、もう10年以上も前であるのに、シーンごとに「あの場面だ」「この場面だ」と原作が心に浮かぶ。読み過ぎて完璧に記憶してしまったストーリーと台詞を、反芻しているような2時間だった。
監督の三木孝浩氏は、この映画で「男女の純愛ともう一つ、家族の再生の物語を描きたかった」と言う。監督はもしかすると「恋愛」よりも「家族愛」を重点的に描きたかったのではないか、と筆者は思った。恋愛映画として観るには、和希とハルヤマ二人のエピソードが小間切れに拾われ過ぎていて、心情のつながりが捉えにくいのではないかと思われた。
鑑賞後、一緒に観に行った(原作を知らない)友人に、「ストーリー、理解できた?」と確認してしまったほど、恋愛シーンは、ただ原作の中の印象的なエピソードを拾い集めてつなげただけのような感覚を覚えた。筆者が原作を読み込みすぎていたためかもしれない。
「原作者の意向も汲んで、丁寧に撮った」と監督がこだわってみせただけあって、場面場面に挟み込まれる風景映像は、たしかにとても美しかった。朝焼けに染まる空、太陽の光を受けて輝く海、夜の町にきらめくテールランプ・・・モノクロであった原作に色をつけてくれた、と感動した。少女時代に想像したこの風景は、かくも美しかったのかと魅入った。
原作へのオマージュとしての役割は、十二分に果たしたであろうシーンであったが、一緒に映画を鑑賞した友人は、「台詞のない映像だけの、静寂の間が至る所に配置されていることで、観ていると意識が内面に向かい、自分自身の親子関係や家族愛へと自然と目が向けられた」と語った。
鑑賞中に自己の内面と向き合える映画は、一方では素晴らしいのであろうが、一方では作品世界への没頭が寸断された時間をもった映画であるとも言えると思う。
観賞者の心が自身の家族へ向かってしまうくらい、この映画は「家族」を描いたものであったということだ。「恋愛映画」としての側面は、やはりもの足りない部分がある気がする。
それにしても、なぜ、これほどまでに、「主人公和希の心情の変化を伝え切れていない」と感じてしまったのか。もちろん、筆者自身の、原作への強すぎる愛があることは否定できない。最初から、どこかハスに構えて観賞していた部分はあったと思う。それは素直に認める。しかし、それを差し引いても、やはり「物足りない」と感じた。たぶん、それは、私の中でもっとも大切だと感じていた台詞が、この作品の肝となる一言が、抜け落ちていたせいだ。
父親を早くに亡くした主人公「和希」は、幼少時から孤独感を抱えたまま成長しており、通っている中学でも友人に心を開けないでいる。自分の殻に閉じこもり、本音を見せずに生きる和希が、はじめて恋に落ちた相手は、暴走族の特攻隊長ハルヤマだった。ハルヤマとの出会いによって、「愛すること」を知った和希。
家を飛び出し、ハルヤマと一緒に暮らすようになったある日、二人は食中毒にかかってしまう。苦しむハルヤマを前に、なんとか薬を飲ませたい和希は、必死に考えを巡らせ、やかんの水を口に含み、口写しでハルヤマに薬を飲ませる。
一緒に暮らしてなお、和希に手を出せなかったハルヤマと、恋愛を知らない中学生の和希が、はじめて口づけを交わす瞬間、二人は見つめ合い、和希は震える。おそるおそる、唇を合わせ、ハルヤマが「コクン」と薬を飲み込んだ瞬間、和希は脱力してハルヤマの隣に倒れ込む。そして、思う。

「人間のくちびるって、あったかい・・・。」

このひとことは、単に和希とハルヤマがそれまでプラトニックな関係であったことを示すのみならず、和希がはじめて、自分から人を求めた瞬間であった。それまで誰にも心を開かず、自分に向けられるさまざまな愛情に背を向け続けた和希が、はじめて人の愛と向き合ったことを「自覚」した瞬間であり、人を愛することを実感したシーンなのだ。
即物的な体温ではなく、人の温かさを感じた和希は、この日を境に、少しずつ周囲の人々の「体温」に心を開きはじめる。最初は、ハルヤマに。そして、いつしか、隔絶していた母親にも。
繰り返すが、私が最後に原作を読んでから、10年以上の月日が流れている。10年の時を経てなお、私の心に生き続けるこの大切なひとことを、なぜ監督は切り捨ててしまったのか・・・。次に、三木監督にお会いしたときには、ぜひ尋ねてみたいと思っている。
 
【あわせて読みたい】