<吉田鋼太郎が仲間由紀恵に接吻>NHK朝の連続ドラマ「花子とアン」に見る脚本家と演出家と演者の間
水戸重之[弁護士/吉本興業(株)監査役/湘南ベルマーレ取締役]
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NHK朝の連続ドラマ小説「花子とアン」が、大好評のまま、8月26日にクランクアップした。25日までの平均視聴率22.6%は、前作の「ごちそうさん」を超えて、朝ドラ歴代最高、最高視聴率も25.9%と、国民の4人に1人は観たことになる。
このドラマの成功は、「赤毛のアン」の翻訳者、村岡花子の生涯を、歌人・柳原白蓮こと柳原蓮子(モデルは柳原燁子)とのダブルストーリーとしたことにあることは言うまでもない。
柳原白蓮は、華族の身分から、25歳も歳の離れた筑豊の石炭王こと伊藤伝右衛門(ドラマでは嘉納伝助)の元に政略結婚的に嫁ぎ10年を過ごした大正10年10月20日に、家を飛び出して東京で待つ7歳年下の若い弁護士と駆け落ちをした。その際、夫への絶縁状を新聞紙上で公表したことで、世間は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
いわゆる「白蓮」事件である。華族にして歌人であり、竹久夢二の絵に出てきそうな楚々とした美しさで大正3美人の一人と謳われた。この柳原白蓮を、仲間由紀恵が「白蓮、さもありなん」という高貴さと美しさで演じている。
修和女学校(モデルは東洋英和女学校)での出会いに始まった、花子と蓮子の関係は、ドラマの原作である「アンのゆりかご」(作者は花子の孫の村岡絵里)にも詳しく描かれている。
「白蓮事件」をフューチャーしたことにより、ドラマは「花よりレンコ」という様相を呈した。中でも、蓮子が伝助の元を抜け出し龍二の元へ急ぐシーンは、ラスト4分間セリフなしで美輪明宏が「愛の賛歌」を朗々と歌い上げ、そのままエンディング、という朝ドラの歴史に残る名場面となった(この回では、毎回恒例の美輪明宏自身のエンディング・ナレーションである「ごきげんよう。さようなら」は無しであった)。
花子や蓮子を中心に、様々な形で、女たちは立ち上がる。女流作家の宇田川満代(山田真歩。奔放な恋多き人生を送った作家・宇野千代がモデルか)や、女学校の同級生だった醍醐亜矢子(高梨臨)、花子の妹のかよ(黒木華)やもも(土屋太鳳)、遊郭から逃げてきた壇蜜までも―。
女たちは、虐げられる存在から自立する存在、そして社会を動かす存在に―。わが国の女たちは、とっくの昔に、「ありのままに、自分を信じて、自由に生きるのよ」と歌い始めていたのだ。
一方、男たちは旗色が悪い。その極めつけが、蓮子の夫だった嘉納伝助(モデルは伊藤伝右衛門)である。演ずるは、「半沢直樹」や「MOZU」でも好演した、吉田鋼太郎。
女に教育は不要、女は男の道具、女遊びは男の甲斐性、とばかりの粗野な人物であり、一代で莫大な資産を築いた石炭王ながら、蓮子の扱いに手を焼き続ける。最後は捨てられ、新聞紙上で赤っ恥をかかせられるという役回り。
中園ミホが伊藤伝右衛門に思い入れをもって脚本を書いていることは明らかで、ドラマの中でも、花子やかよから見れば、伝助は「いい人」となっている。そのせいか、ドラマの伝助ファンはオトナの女性に意外に多いようだ。曰く、不器用で女性の扱いを知らないだけで、あの時代なら仕方ない、むしろ理解してあげるべき、といった調子だ。蓮子には全く理解できない、平成の女たちのコメントである。
さて、事件が一段落したある日、蓮子は 道で伝助に 偶然出会い、屋台に飲みに誘う。
「あなた。ちょっと一杯やりませんか」
しばし大人の会話をし、自分におごらせてくれという蓮子の申し出を受け入れた伝助は、別れ際に、蓮子を優しく引き寄せ、おでこに接吻をする。それまでなすすべもなく蓮子に振り回されてきた伝助が、最後に示したロング・グッドバイであり、それを受け入れる蓮子であった。
かよ役の黒木華によれば、「おでこに接吻」のシーンは、吉田鋼太郎のアドリブだそうだ(「花子とアン」公式サイト「今週の日めくりノート2014/8/7」)。脚本も読み、現場でも、 屋台の陰から見ていたかよが言うのだから、本当だろう。
さて、この「おでこに接吻」、原作にも脚本にも演出プランにもないとしたら、演者の暴走だろうか。それとも、絶妙のアドリブだろうか。吉田鋼太郎が単に仲間由紀恵にキスしたかったからだろうか(なくもない)。
いずれにせよ、史実の伝右衛門と、彼の分身である伝助のキャラクターからすれば、「ない」。ゼッタイに。アドリブにもいろいろある。「本番でいきなり決行」から、脚本にはないが、直前に監督や相手役に提案するものまで。今回はどうだったろう。筆者としては、リハーサルまでは抱擁のみ、本番でいきなり決行、という吉田の単独犯(?)説をとりたい(吉田はアドリブ好きのようである)。
サプライズの接吻がどんな映像(え)になるかと、愉快犯的確信犯だったのではないか。とすれば、冷めた心で静かに受け止めた仲間もたいしたものである。
さて、この伝助の接吻の意味するところは、何だろうか。
最後の別れの挨拶としての路上でのキッスは、伝助にしてみれば、蓮子と出会わなければ知らなかった世界であり、密かに蓮子の住む世界を覗いていたことを暗示する。いよいよ別れの場となって、ようやく伝助は自分の知らない蓮子の世界を受け入れ、最大限の勇気をもって蓮子流の真似事をして、蓮子への愛情を表現した。
それは女たちによる時代の大きな変革と、それに対する旧勢力側の観念を象徴するシーンであった。原作も、脚本も、演出も、つまりはそういう物語を作っているのであり、吉田鋼太郎は歴史と物語を正しく演じたのである。
ごきげんよう。さようなら。(水戸重之[弁護士/吉本興業(株)監査役/湘南ベルマーレ取締役])
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