<このまま低視聴率と批判の嵐の中で終わるのか?>『北の国から』の杉田成道監督が投げ続ける直球ドラマ『若者たち2014』
水戸重之[弁護士/吉本興業(株)監査役/湘南ベルマーレ取締役]
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「若者たち2014」が、苦戦している。
「フジテレビ開局55周年記念企画」として鳴り物入りのスタートだったが、<時代遅れの昭和のドラマ>、<リアリティがない・共感できない>、とのコメントがネットでは目立つ。
東京下町を舞台に、両親を早く亡くした貧しい五人兄弟の物語、親代わりの熱い長男と弟・妹との衝突という、1966年のオリジナル「若者たち」の設定はそのまま。「北の国から」の杉田成道監督の発案で、自らもチーフ演出家を務める。脚本はヒットメーカー、武藤将吾。キャストは、妻夫木聡(長男・旭)、瑛太(二男・暁)、満島ひかり(長女・ひかり)、柄本佑(三男・陽)、野村周平(四男・旦)の5人兄弟を軸に、それぞれの相手役も、蒼井優が妻夫木君の、吉岡秀隆が満島ひかりの、橋本愛が柄本と野村の、長澤まさみが瑛太の、と豪華な顔ぶれ。テーマ曲は、ブロードサイド・フォーの名曲「若者たち」を、森山直太郎が歌う。
なのに-。
杉田監督も出席した7月12日のフジテレビ番組審議会には、第1話(7月9日放送)がとりあげられた。作家の林真理子委員「いつの時代だろうと思うぐらい、貧しい家が出てきて、不幸のてんこ盛りで、心に残らなくて、最後まで、これが今ドラマになる意義は何だろうと思った」。脚本家の大石静委員「今風の男の子たちがつかみ合い殴り合うことに違和感があり、登場人物に説教されている感じがあり、誰のことも愛せない」。
いやはや、「北の国から」の名匠も、えらい言われようだ。
当の杉田成道監督は、番組審査会の場で、「ありえないリアリズムだが、そこを超えるある種人間の真実、人間の根源的に持っている何かが、見る人を訴えれば、それはそれでいい。 どうせだめならド直球を投げてみないか?と。できればどこかで視聴者がミットで受けてほしいと願っている」とコメントした(「新・週刊フジテレビ批評」)。
視聴率はというと、第1話こそ12.7%だったものの、その後は7%、6%台を推移している。今のところ、視聴者は杉田監督の直球を受け止めていないようだ。視聴者のストライクゾーンに投げてくれなきゃ捕らないよ、ということか。
たしかに、狭い家の中や近所の泥の水たまりでの兄弟の殴り合い、貧困、水商売、演劇、プロレス・・・は「ザ・昭和」そのものである。とはいえ、このドラマ、第一印象であきらめてしまうにはもったいない。
前半のハイライトと言うべき、「第4話-諦めんな」をみていこう。
予備校に通う世間知らずの四男の旦が想いを寄せる香澄(橋本愛)は、三男の陽が主催する劇団に誘われ、しだいに引き込まれていく。その劇団が上演を目指していたのは、一世を風靡した、つかこうへい劇団の十八番「初級革命講座 飛龍伝」。
学生運動のリーダーに祭り上げられた女学生と高卒の機動隊員の悲恋と衝突の物語。二人はけして相容れない組織の対立の中で恋に落ち、子を宿すが、全共闘40万人を束ねる神林美智子(60年安保闘争のデモの中で亡くなった東大生の樺美智子さんを想起させる)は、学生運動を選択し、赤子を機動隊員の彼に託して、機動隊との衝突の中に身を投じ、死んでいくのだった―。<安保闘争版・ロミオとジュリエット>である。
初演は1973年。90年代に入ってからは、富田靖子、牧瀬理穂、石田ひかり、広末涼子、黒木メイサ、桐谷美鈴と、その時代の一番旬な女優を次々に主役に抜擢し、事実、その後主演女優たちはそれぞれ時代を代表する役者になっていった伝説の舞台だ。
第4話の中で、いよいよ「飛龍伝」が劇中劇として登場する。劇団員の資金の持ち逃げ、空中分解の危機を乗り越え、陽は上演にこぎつける。
上演当日、兄弟たちが劇場に姿を現す。最後に現れた二男の暁(瑛太)は、香澄に「飛龍伝」の主演女優を務めるはずだったかつての恋人(広末涼子)の姿を重ねていた。恋人は、舞台の直前に病魔に倒れ、夢を果たせぬまま亡くなっていたのだった。その二男の目には、舞台上に、いつしか亡くなった恋人ヒロスエが立ち現われ、「飛龍伝」のクライマックスのセリフを語り始めた―。
バックには、映画「ローズ」のテーマ曲が静かに流れる。ベッド・ミドラー演じる60年代の女性ロックスター、ジャニス・ジョプリンが、ハードスケジュールとドラッグでボロボロになり、燃え尽きて亡くなるまでの物語の、最後に流れる名曲だ。
つかこうへいは、エンディングに「ローズ」のテーマを使い、学生運動のリーダーに祭り上げられ死んでいった神林美智子を、ジャニスに重ね合わせた。今また、その上に杉田成道が重ね合わせる。実際の舞台を務めた広末涼子を11年ぶりにひっぱりだし、更に橋本愛に演じさせることが、杉田成道が投げた変化球である。ベテランは直球ばかりではない。
<過剰なもの>が世の中をひっぱっていた60年代から70年初め。その時代を、昭和から平成まで、<過剰な演劇>で描き続けた、つかこうへい。
現実の全共闘の運動は、1969年1月、学生たちが立てこもった東大安田講堂に、機動隊が放水車で放水し、投降する学生たちがテレビ中継で全国に晒されることで終わる。派手な放水は、熱にうなされた日本国民全体に冷水を浴びせるものだった。
オリジナルの「若者たち」は人気ドラマではあったが、実は物議を醸す回があり、番組は打ち切りになっている。関わっていたドラマ屋たちの無念をも、この2014年版は引き受けているとは言えまいか。
志半ばで敗れた<過剰なもの>たちは、失笑の対象となり、うっとうしい・うざいと言われ、やがて無視されるようになった。少数者や貧困者はまるでこの世界にいないかのように、「リアリティがない」と切り捨てられた。
「若者たち2014」が投げた球は、「過剰なものは全否定かい?」という問いかけなのだろう。マウンドに立つ杉田成道のバックに亡霊のように立っているのは、かつて世の中を変えようとした、若者たちであり、演劇人であり、ドラマ屋たちである。バッターボックスに立つのは視聴者だけでなく、妻夫木聡や橋本愛であり、今のドラマ屋たちである。
このまま低視聴率と批判の嵐の中で終わるのか、<過剰なもの>が「視聴者」という見えない山を動かすのか。往年の名投手の乱調試合となるのか、語り継がれるベテランの快投となるのか。
ゲームセットまで見極めずに立ち去るのはもったいない。(水戸重之[弁護士/吉本興業(株)監査役/湘南ベルマーレ取締役])
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