<テレビ報道は野次馬ではない>御嶽山噴火の火砕流を「見事に」と表現した無神経さ

社会・メディア

榛葉健[ テレビプロデューサー/ドキュメンタリー映画監督]

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この度の御嶽山の突然の噴火。

紅葉の見ごろに合わせて行楽に来た山好きの人たちにとっては、 全く予想もしない事態だったことと思う。筆者は、これまで世界最高峰チョモランマなどの山岳ドキュメンタリーを作ってきた一人として、 モノトーンと化した御嶽山の光景が、まだどこかで信じられずにいる。

まずは何よりも、亡くなった方々の御冥福を心からお祈りし、 山に残されたままの方々が、一刻も早くご家族のもとに還られることを願いたい。

そんな中、ある全国ネットのニュース番組を見て、愕然とした。 火山学者がビデオインタビューに答え、御嶽山の噴火のメカニズムを解説する場面だった。

「見事に横に流れているのが、火砕流…」

これに耳を疑った。

「“見事に”」とは何だ?

そして、こんな言葉を放送で流してしまう、制作者の鈍感さに珍しく腹が立ってきた。

学者の中には、時に、学問の世界だけに通じる言葉を発し、そこに人命がかかっていることに意識が向かない人がいる。それはそれで非常識なことだ。しかし、たとえそうであっても、「言葉のプロ」であるべき放送人は、その発言は失言だと気づき、編集でカットするのが普通であるはずだ。

学者は「言葉のプロ」でなくても、報道に携わる者はその道のプロだ。

報道人であれば、気付かなければいけない。甚大な被害が生まれている災害を「見事に…」と言われたら、 家族を失ったり行方不明のままでいる人たちが、どう感じるかを。

かつての災害で、完全に倒壊した建造物を見て、

「見事に倒れています」

などと言ったリポーターがいて猛烈な批判を受けたことがある。 日本を代表するジャーナリストである故・筑紫哲也さんも阪神・淡路大震災の時、 神戸のあちこちで火の手と煙が上がっているのを見て、

「まるで温泉の湯煙のよう」

とうっかり言ってしまい、猛批判を浴びた。

彼にとっては、生まれ故郷の別府の光景と重なったことだったが、そこで言うべき比喩ではない。

人は時々、失言をしてしまう。けれども、周囲にいる人間が安全弁になれば、問題を食い止められる。 今回も筑紫さんの時も、どちらもビデオだった。

つまり編集でカットできたケースだ。

にも拘らず、対応できていないのは、 映像の編集者が当事者の心の痛みをまったく理解出来ていないのだと筆者は受け取った。

災害報道で最も大切なことは、当事者の側に立つことだ。「いのち」の尊さを伝え、 同じ災害が起きても、犠牲者を少しでも減らす、という社会的使命を持ちながら、一方で、雑な伝え方をすることで、 当事者を傷つける。それでは、火事場の野次馬と一緒ではないか。

私たちは、「人間のいのち」を伝えているのではないか。 その自覚が、災害報道の制作者たち一人ひとりにどれだけあるか、常に自己点検が求められている。

[メディアゴン主筆・高橋のコメント]言葉の感覚は常日頃研ぎ澄ましていないと、とんでもないことになる。災害報道とは比すべくもないが、「目黒のさんま祭」でこんなリポートがあった.「さんま目当ての人が行列を作っています」たしかにそのとおりだ。ただし、これは見ている人を嫌な気持ちにさせただろう。「さんまを食べようという人で、長い行列ができています』と、言えないのか。
 
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