<私は如何にして脚本家になったか②>NHKを辞めると妻に言った時

映画・舞台・音楽

香取俊介[作家・脚本家]
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その①より続く
NHKを辞めるといったとき妻が案外あっさりとOKをだしたことについて、生活が不安定になるし普通は反対するものだ、と友人たちにいわれた。「香取の奥さんは変わってるんだね」ともいわれた。
「香取は財産があって生活の心配がないから簡単に辞められるんだ」などともいわれたが、遊んでくらせる財産等があるわけもない。夏目漱石の作品の中にでてくる「高等遊民」に学生時代からあこがれていたし、遊んで暮らせる財産があったら多分就職などはせず、まずは「文学の師」(と僕が勝手に決めていた)小川国夫さんのように「世界放浪」の旅にでる。そしてさまざまな体験を積み重ね30になるころ、「作家」として立つ……などと漠然と考えていた。
当時、八王子に住んでいて都内まで通うのに時間がかかり疲れるので、都内にマンションを購入する契約をすませたばかりだった。マイホームを買うと、得てして転勤命令が出るぞと言われたものだが、まさにその通りになり、一人苦笑した。
時に36歳。
文筆業の厳しさはすでによくわかっていたが、ここが「勝負」と思った。組織に長く勤め、そこを中心に生活がまわっていくと、当人も気づかないうちに組織の論理、価値観が苔のようにしみついてしまう。よほど堅固な意志の持ち主か変わり者以外は、この弊からまぬがれることはできない。
どうせ一回しかない人生である。自分のやりたいことをやらなければ、この世に生まれてきた甲斐がない、でも果たして生活が成り立つのか……などと考え、その夜、よく眠れなかった。しかし、いったんこうと決めたことである。武士でもないのに「二言はない」などと少々ヒロイックに思っていた。高度成長の時代であったし、辞めて死ぬわけじゃあなし、植木等の台詞ではないが、「そのうちなんとかなるだろう」といった気分だった。
ただ、上司からいわれた。

「急に辞められても困る。他に勤めたりするのならともかく、文筆業になるのなら1年間余分にNHKにいてもいいだろう、1年後に辞めるということにしてもらえないか」

辞めると覚悟をきめれば怖いものなど何もない。これは一種のチャンスでもある、と五秒ほどで決断し、

「わかりました。もう1年いさせていただきます」

といった。ロシア語がまあまあ出来たので、生活に困れば「技術翻訳」の仕事でもすればいいと思っていた。妻も世間からみると「一流大」を出ていたので、生活に困ったら私塾でも開くかなどと話し合った。世間の親は「学歴ブランド」に弱いのである。
以上のようなことがあって新しく配属されたのは「水曜時代劇」の班だった。正式にはどう呼んでいたのか記憶が薄れているが、半年間つづく時代劇の連続ドラマを制作する班だった。ちょうど『風の隼人』を制作中で、若き日の夏目雅子さんやまだ青山学院の学生であった名取優子さんなどがレギュラー出演していた。原作は直木賞の名前の由来となった直木三十五。脚本は市川森一さん。
市川さんは僕よりひとつ年上で、すでに大河ドラマの脚本家としては最年少で『黄金の日々』を書いていた。台詞のきれがよく、大変才能のある人と以前から思っていた。
作家志望なら市川さんと気が合うだろうとプロデューサーは思ったのだろう。それまで市川さんの脚本担当のデスクが病気で倒れたこともあって、僕が「遅筆の市川さんに脚本を早く書かせる」役目を担うことになった。
出版社でいえば連載小説の作家の担当者の役割である。ぼくが担当になったとき、連続ドラマなのに1週間後に収録する台本が出来ていない状態だった。現場はかなり危機的状況であったといってよい。
最初に市川さんと顔合わせをしたとき、どんな会話をしたか記憶にないが、

「とにかく台本がないと収録できなし、放送に穴があいてしまう。僕も一緒にストーリー等考えますから、とにかく間に合わせて」

といった意味のことをいったはず。年がほぼ同じで、ちょっとちゃらんぽらんな所も似ていると僕は思った。この人とだったら「友達感覚」でおつきあいが出来る、と会った瞬間に思った。
余談ながら僕は人を判断するとき、最初に会った瞬間、「こちらの人」「あちらの人」と判断する。「こちらの人」は1、2割ほどしかいないが、瞬間的に判断して、それがはずれた事はすくない。
1年間、組織にお世話になることは、俗っぽくいえば1年間、生活の資を確保できるということである。依然として脚本家になることなどまったく考えていなかった。小説を書くネタがこれで増えるかもしれない、「体験」としては悪くない、と思ったどうかも、忘れた。
ただ、ひとつ心に決めたことがある。

「どうせ1年で辞めるのだからと手抜きをするようなことは絶対にしないこと」
「飛ぶ鳥あとを濁さず」

経験も浅く畑違いのドラマで、自分のやれることは限られているが、少なくとも全力を尽くしてこの1年をすごす。それはきっとこれからの人生にプラスとなる。
その時はまだ脚本執筆がどれほど難しい仕事であるか、本当のところよく理解していなかった。もちろん、「脚本らしきもの」を書くのはそう難しくはないが、多くの人を感動させるものを創ることが大変難しいのである。
さて、気持ちを新たに、前任者にかわって「本取り」の仕事のため、当時、講談社近くの音羽にあった市川宅に日参する日がはじまった。原稿の遅れなど簡単に取り戻せると思っていたのだが、これがいかに甘い考えであるか、気づくのに時間はかからなかった。
(その③につづく)
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