<映画『くちづけ』から考える>知的障害者を扱った映画のテーマ性とエンターテインメント性

映画・舞台・音楽

川松佳緒里[コピーライター]
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遅まきながらDVDで映画『くちづけ』を観た。貫地谷しほり、竹中直人主演、堤幸彦監督という豪華メンバーによる2013年の話題作。知的障害者が生活するグループホーム「ひまわり荘」を舞台に繰り広げられる、笑いも涙もいっぱいの感動の物語。貫地谷しほりは、この作品でブルーリボン賞主演女優賞を受賞した。
いやー、泣けた、泣けた。おそらく身近に障害者がいようがいなかろうが、とにかく感動して泣けると思う。それも、一度ではなく……。
感動の盛り上がりが幾度となく訪れ、ラストはいくぶんほっこりして終わるのだが、観終わって感じたのは「あれ?この映画っていちばん何を訴えたかったんだろう?」という、ちょっとした違和感だった。てっきり“弱者の居場所の必要性”みたいなテーマがもっと浮かび上がってくる映画なのかと思ったのだが、もちろんそこもポイントではあるのだが、なんか違う気がした。
そんな違和感は、『くちづけ』がもともと舞台作品だったことに関係するかもしれない。
原作・脚本は、準主役の“うーやん”役の宅間孝行氏。脚本家、監督、役者をマルチにこなす彼は、舞台でも“うーやん”を演じた。“うーやん”にはモデルとなった実在の障害者がいるそうだけど、話し方や手を出して質問する様子、何より、前髪に息を吹きかける→首を掻きながらかしげる→左上を見るなどして顔をしかめる、でワンセットの常道行動は、実にハマっていた。
彼はとにかく、知的障害者をテーマに芝居を作る上で、丁寧な取材をしたに違いない。
「~~~だと思う人?」「はーい!」のやりとりや、自分の名前に“ちゃん”をつける紹介の仕方や「チテキの人(知的障害者の意)」という言い方はじめ、自閉症および知的障害者である息子を育てている私にとって、たくさんの「あるある!」がてんこもり……てんこもりというより、「あるある!」だけをつなげて作った話に見えた。
ストーリー展開には、健常者と障害者の問題、身内に障害者がいることでの困難、グループホーム経営の問題、親による手当の着服、知的障害者が性犯罪の被害者になったり、浮浪者や犯罪者(冤罪)になってしまう問題、親なき後の生活……、現実の知的障害者をめぐる代表的かつ大きな問題点が、取材などで裏付けられた情報のリアルさとともに矢継ぎ早に、まるでジグソーパズルが1ピースずつはまっていくかのように進んでいく。
演劇的にそれぞれの立場のキャラクターが、各シーンで活き活きと立ちまわる。そして、障害者をもちろん好意的な視点で描きながらも、特定の問題点をクローズアップして、「だからこういう世の中にしようよ!」と強く引っ張ることはしない。
「理解しあえる世の中がいいね」的なセリフも、「支援側からの一意見」程度におさまっている。強いていえば、ガングロ女子高生が、「いったいこの家ではだれがチテキで、だれが普通なの!?」と叫ぶ台詞に、作者の隠れたメッセージを感じた気がしたぐらいだ。
私たちは日頃、「これは問題で、解決すべきだよね!」というような論旨展開に慣れ過ぎているのかもしれない。テレビの特集にしても、世の中への発信というものを意識し、主訴をはっきりさせて創られると思う。
たとえば、『24時間テレビ』は、ものすごく募金が集まるし、大いに社会の力になっているし、現に息子も番組ロゴが入った車で送迎されたりしていて意義は大きいけど、個々の物語りは違っても、「認め合おうよ」「頑張ろうよ」というような結論が、考える間もなく伝わってきてしまう気がする。もちろん、とくに長く続くテレビ番組などは、それが成功の一形態なのだろうけれど。
「よくできた感動的な芝居(映画)だよ。そしてこれを見ると、何も知らない人でも知的障害者の現状が、わかる範囲でわかるよ」。それが『くちづけ』なんだと思う。見て、大いに笑えて、大いに泣けた、そういう心の動きを引き出してくれるものが大事だとも思う。もちろん、この作品で提示されている問題のどこかに強く思うことがあれば、自分なりに突きつめればいい。それは自由だという感じ。
いろいろあるけど、私たちは生きていく。その現実の中で、“うーやん”のピュアさに乗せた、おしつけがましくないエンターテイメントをまずは楽しめばいいのかな、そんな気がした。
 
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