<作家が「あて書き」したい芸人>塚地武雅・板倉俊之・田中直樹・宮迫博之・岡村隆史

エンタメ・芸能

高橋秀樹[放送作家]
***
劇作家や脚本家は台本の書く時に、「あて書き」という手法を使うことがある。役者や演者を先に決めて、その人が演じやすいような、その人の個性に合わせるような、または「この人にこれを演じさせたら面白いだろう」ということを想定しながら、台本を書くことを言う。
「あて書き」で有名なのは、時代の寵児・三谷幸喜である。
自分の劇団「東京サンシャイン・ボーイズ」の座付き作家であったから、「あて書き」の方が当たり前であったのだろう。主な俳優に西村雅彦、相島一之、小林隆。劇団員を熟知する三谷は「あて書き」で、優れた芝居を連発した。
日本で一番メジャーな劇作家・脚本家のひとりになった今も、「あて書き」をしている。『古畑任三郎』の人物造形と、惹きつける台詞は「あて書き」の成果である。
もちろん、多かれ少なかれ脚本家は「あて書き」をするだろう。作家性を強く打ち出す人、たとえば倉本聰などは、「あて書き」が少なそうな気がするが、『北の国から』では田中邦衛さんに、『うちのホンカン』では大滝秀治さんや八千草薫さんには「あて書き」をしていたのではないかと思われる。
そうでないと、大滝さんと八千草さんの、あのコントにも負けない爆笑のやり取りは書けないだろう、と思う。二つとも連続のシリーズだから後半は「あて書き」でも、最初は「あて書き」ではなかったのだろうか。
安倍公房や井上ひさし、別役実や野田秀樹は劇作家として「あて書き」をするのだろうか。つかこうへいは、口立てで、芝居を作って行くが、脚本になったものを読んでも面白いのはなぜだろう。脚本で読むときは役者のことなど想定していないのに。このあたりは、ぜひ、メディアゴン執筆者の一人・ドラマプロデューサーの貴島誠一郎氏に聞いてみたい。
2013年、池袋東京芸術劇場で上演された、三谷脚本『おのれナポレオン』を観た。
メインキャストである野田秀樹、天海祐希、山本耕史のうち、天海祐希が、軽度の心筋梗塞で降板する直前の舞台だった。「あて書き」されたであろう野田秀樹の「それでも何とか自分流に変えてやろう」という気迫が伝わってくる、野田の役者ぶりに目を見張った。
三谷対野田の対決である。2日の公演休止の後、天海祐希の代役は宮沢りえ。その舞台もすばらしかったと聞くが、三谷は「宮沢りえ用」に台本を変え、宮沢はその台詞を覚え、自分のものにしたのだろう。
コントの場合は「あて書き」以外にはありえない。ダウンタウンとウッチャンナンチャンに書くコントは決して同じものではならない。僕らの世代で言えば、コント55号と、てんぷくトリオのコント台本はまったく違うし、ビートたけし、明石家さんまのコントとドリフターズのコントが同じ台本であることは考えられない。
もしかしたらそのコントの「あて書き」に反旗を翻したのが、亡くなった井原高忠氏の番組『ゲバゲバ90分』だったのかもしれない。『ゲバゲバ90分』のコント55号は、だから「つまらなかった」のかもしれない。
今は、コント番組も絶滅に近いし、その人のために「あて書き」したい芸人も作家としては減ったように思う。筆者から見れば、塚地武雅、板倉俊之、田中直樹、宮迫 博之、岡村隆史、だろうか。
・・・そこう書いてみれば、結構豪華なのかもしれない。
 
【あわせて読みたい】