<決定版・欽ちゃんインタビュー>萩本欽一の財産⑲「浅草軽演劇」と「吉本新喜劇」と「松竹新喜劇」の関係

エンタメ・芸能

高橋秀樹[放送作家]
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「三宅裕司さんにね、軽演劇って言うと、どういうイメージって聞いたことがある。三宅さんは『なんでもあり』だって」

と大将(萩本欽一)が言う。三宅裕司さんは、浅草喜劇の流れを組む伊東四朗さんと、東京の喜劇、いわゆる“軽演劇”の舞台を再現するとして、「伊東四朗一座」の公演をしている。
大将は高校卒業後、浅草公園六区にあった東洋劇場で軽演劇の先輩たちに、もまれて育った。

「僕は『なんでもあり』だとは思わなかったんだよねえ。軽演劇は動きの芝居、しかもチームでやるというルールがある。だから、ダジャレなんかの『しゃべりネタ』、他の役者とは関係なく自分だけで受ける『自分ネタ』、それから『奇抜』って言って流れとは関係ないギャグは絶対禁止、やったら先輩にこっぴどく殴られた」

「『しゃべりネタ』も『自分ネタ』も『奇抜』も、笑いとしてはあるから、軽演劇には合わないだけで、『しゃべりネタ』をやりたい奴は演芸場へ行けって」「僕は、演劇史の専門家じゃないから、聞いた話だけど、『自分ネタ』や『奇抜』の人は吉本へ行った」
僕「『奇抜』ってのは赤ふんどし姿で舞台走り回ったりする人」

「そうそう、そういう人は吉本へ行った」

僕「藤山寛美さんの松竹新喜劇が、浅草の軽演劇に近いような気がしますが」

「そうだよねえ、寛美さんとか、渋谷天外さん(2代目)、曾我廼家十吾さんが作ってたのはルールのある芝居だ。その芝居が東京へ戻って浅草の軽演劇にも影響を与えたとも言えるなあ。東京から大阪へ、大阪から東京へっていう感じだと思うよ」

明治末期に始まった新劇は、ヨーロッパ流の近代的な演劇を目指す日本の演劇のことで、旧劇(歌舞伎)、新派(書生芝居の流れ)に対する言葉である。
大将はその芸術志向的な新劇に対して、笑いを中心とするものを軽演劇と名づけたのは、演者たちではなく、評論家のような人々ではないかという。だから、笑いの入っているものは何でも軽演劇。でも大将の認識する軽演劇はもっと狭い意味であって、それは「浅草軽演劇」とでも呼ぶべきものであるという。
浅草軽演劇以前はどうであったか。古川緑波、榎本健一の時代を大将はこう表する。

「緑波さん、エノケンさんの時代は、アメリカを勉強していた時代だ。アメリカで封切られた映画は、3ネックライタって日本に入ってくる。著作権なんて、考え方のない時代だったから、その映画の脚本を取り寄せて、優れた脚本家が日本流に翻案してそのままやる。音楽も譜面を先に手に入れてそのままやる。だから、舞台を見てから、映画を見ると、あれ、これこないだ見た舞台と同じだ。なんてこともあったよ」

その優れた脚本家というのが大将も演題を聞いたことしかないという伝説の芝居「最後の伝令」を書いた人である。作・菊谷栄。この舞台、今はDVDで見ることができるフランク・キャプラ監督のコロムビア映画「陽気な踊り子」の見事な翻案であった。
 
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