<落語の寿命を百年延ばした立川談志>今こそ落語名人たちの業績と系譜の学術的評価を
齋藤祐子[文化施設勤務]
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大衆芸能である落語界から「文化勲章」が出たのは桂米朝が初だったが、米朝のような研究者的なセンスを持った人物はその後続いていない。やはり、大衆芸能は「今ここにいる目の前の客」に受けるかどうかの瞬間勝負。あくまでも人気商売のため、「贔屓をふやしてなんぼ」ということなのだろう。
桂米朝は、「埋もれていた上方落語を数多く復活させ多くの弟子を育てた」というわかりやすい功績を上げたが、生涯実演家である落語家は人間国宝にその技術が認定されるにとどまり、没後もまとまった評価をされる機会は少ない。
「話芸を専門とする資料館」がほとんどないことも理由のひとつだろう。「大阪府立上方資料館 ワッハ上方」は、名前からしても上方の芸能を主にカバーするのみ。大阪には落語専任の記者もいるが、都内では国立劇場の「伝統芸能資料館」があるのみ。また、ここは主には歌舞伎の資料を扱う。
立川談志が亡くなって3年になるが、没後こそ雑誌も特集を組んだが、その後まとまった評価がなされたかといえば、少々不足の感がある。なにより多面体の人物だったこともあって、存命中から言われていた「落語の寿命を百年延ばした」という感覚的な評価しか定着してない。
没後に開かれる追悼落語会が、実演家として生涯現役で生きる落語家にとってあまり意味をなさないのは確か。しかし、たとえばそれにあわせて大規模な回顧展が開催されれば、そこで資料が整理され、年譜が作られ功績が整理検討されてゆく。そしてその地道な作業こそ実は、後世に業績を伝えるよすがとなる。
柳家小さん、三遊亭圓楽と人気落語家が相次いで亡くなった江戸(東京)落語の世界でも、彼らを学芸的にも評価しようという機運はなかった。その業績からして桂米朝にはその機会もあるだろう。そしてそんなことが、芸能としての息の長さや評価の基礎となり、後に続く後進への贈り物ともなる。
「実践」のあとには、「評論や研究」できちんと意味づけを行う。その両輪の存在と積み重ねが、美術や文学の世界で豊富な文脈やアーカイブとなっていったことは今さら語るまでもない。そこでは過去の中に、作品や作家が位置付けられ、今に生きる作家の試みや作品も感覚だけでなくきちんと評価されていく土壌となっている。
思想誌も追悼特集を組んだ立川談志なら、江戸落語家の中で先陣を切って、その業績と生涯を評価し位置付けることもできよう。
もとより、人間国宝だった師匠・小さん、師との仲たがいと落語協会脱退、独立系の立川流の創設と現代落語史の只中を生きてきた人物でもあるのだから。東京の落語界もそろそろ本気で系譜や業績を整理継承する時期なのでは、と老婆心ながら考える。
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