<ノンフィクションの種:肯定できない取材手法>取材対象を笑い者にしたり、見下したり、からかったりすることが「ウケる」受けると思っている作り方
高橋正嘉[TBS「時事放談」プロデューサー]
取材対象を笑い者にしたり、見下したり、からかったりすることが受けると思っている作り方によく出会う。
出るほうとすれば、自慢したい、目立ちたいという心理だろうか?この種の番組は昔から根強く続いている。
程度の差はあれ、覗き見したいという心理と、自慢したいという心理が微妙に合致して成立しているのだろう。しかし、その取材手法には首肯できないところがある。
かつて錦鯉がまだ高いころ錦鯉を買っていく人を取材したことがある。高いもので一匹100万円を超えるものがたくさんあった。品評会で優秀なものになると1000万円を優に超えた。なぜそれほど高くなるのか、育て方、選別の仕方も取材した。だが、やはり興味はどんな人が買っていくかにあった。
生産者の家に行くと、家の中に立派な掛け軸があったり、絵が飾ってあったりする。こういう趣味があるのかと聞くと、錦鯉を買いたい人が置いていくという。売れるチャンスがあれば絵は売るという。でもサービスみたいなものです、という。なかなか良い値段では売れない、と。
この絵を置いていった人を取材できないかと頼んでみた。OKが来たのは一週間ほど経ってからだ。新潟県の北のほうの方だった。老夫婦だった。60歳を少し超えていたと思う。
行ってみると錦鯉が好きなのは良くわかった。普通庭に池がある。だがこの家は庭が全部池なのだ。それほど大きな家ではない。縁側が池に接するように作られている。ここで毎日鯉を見て暮らしている。1000万円もする鯉ではなかったと思う。しかし、何百万円はすると思う。その鯉が十数匹池にいた。
奥さんに話を聞くと「お金がなくなってから家の宝物を持ち出すようになった」とのこと。江戸時代から続く商家だったという。今はもう商売はしていない。売れるようなものはもうあまりないという。
屏風がひとつ残っているという。失礼だが、小さな家には置き場所にも困るように置いてあった。奥さんの話し方は怒っている風でもなかった。とても静かだった。商家を維持できなかった無念さも伝わらない。
なぜ取材を受けたのだろうという疑問がずっとあった。自慢をするというのとも少し違う。静かな老後を二人とも全く否定していないように思えた。庭の鯉を見ているご主人は幸せそうに見える。それで良いと言っているように思える。後味の良い取材だった。
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