<ノンフィクションの種>駅で胴上げされている人を撮りたいなら4月1日午前10時に東京駅へ行くことだ

テレビ

高橋正嘉(TBS「時事放談」プロデューサー)

最近、「テレビは金太郎飴だ」「どのチャンネルを見ても同じような番組ばかりやっている」ということをよく聞く。

先日ATP(有力テレビ製作会社の集まり)の会議に出たとき東京キー局の編成局長からも同様の話を聞いた。それも一局ではなかった。「まねをやめたい」「まねをやめよう」という挨拶だった。編成局長なのだから自らが真似でない企画を採用すればいいのではないかと思うが、やめられないというのはやはり病根は深いのだろうなと思う。

企画を持っていくと、編成部員は必ず「これが面白いという根拠は?」と問う。彼、時には彼女が納得する答えをするのは実に難しい。容易に納得してくれるのはこの答えだ。「この企画はむかし視聴率をとった!」それは真似ということだ。 企画書で判断しなければならないのであれば出来上がりを予測するか、まあ推理しなければならない。これはさらに難しい。普通は自分の勘であるとか経験であるとかでやっているものだ。勘をどう説明すればよいのか?

ところが企画書にどう面白いかを書き込むことを要求されることがよくある。現場に居る人ならば書かずとも面白さを想像力で補うが、判断者(編成など)が現場から遠くなればなるほど想像力から遠くなる。 結局、具体的内容を書けば書くほどそのとおりのネタを見つけることは困難になるから、再現ややらせが蔓延り、その上、どこかで見たものになる。

現場の推理力、勘が説得力を持たなくなっているのだろう。チーフディレクターや総合演出、制作プロデューサーなど、現場から遠い肩書きを持つ人が増え、その人たちが力を持つようになって居るのが現状だ。結局その人たちが企画統括になり同じように現場から遠くなった編成部員たちが判断役になっている。

かつて「そこが知りたい」というノンフィクション番組で「春」を撮ろうということになった。難しいテーマだ。いくつかの取材候補から転勤で駅のホームで万歳されているような人を取材しようということになった。どこで撮れるのか、さっぱりわからない、JRの広報に聞いてみた。わからないという。当たり前だ。東京駅に行って聞いてみた。何人か聞いてみた。そしたらベテランの一人が

「4月1日の午前10時に来たらいると思いますよ」

とおっしゃる。当時でも取材クルーを出す値段は一日15万円。レポーターも使わなければならない。無駄な取材はできない。しかし、一か八か、行ってみることにした。ベテラン駅員の言い方に信頼感があったからである。

そして4月1日当日、火曜日だったと思う。行ってみると、いた。 それも一組ではない。あっちも、こっちもという感じだった。 それがどれだけ面白い画になったかはわからない。しかし、本物の現実感があった。

  • ベテラン駅員の述懐

「たぶん朝一で会社に挨拶してその足で東京駅に来るんでしょうねえ。だから、見送りの人も大勢居るんですよ」

経験のチカラ。想像のちから。 おそるべき現場力。

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