<テレビのアニメ作家という魔窟>宮崎駿監督と「テレビのアニメ作家」の致命的な違い
高橋秀樹[放送作家]
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テレビのアニメ作家の世界は群雄割拠である。いや、魑魅魍魎である。
宮崎駿さんのような本編映画の作家の世界のことでは無い。テレビアニメの作家のことである。なぜ、魑魅魍魎なのか? この世界には、最終目標が違う人たちが、脚本家として寄り集まってくるからだ。もちろん、テレビアニメを書くのが最終目標という人もいる。だが、そうではない、途中経過としてアニメを書きたい人もこの世界には、押しかけてくるからである。
- テレビドラマが書きたい人
- 映画が書きたい人
- バラエティで、笑いをやっている人
- ゲーム作家
- 劇作家
- 芸人
- 小説家
- 教育・幼児番組をやりたい人
10分サイズのテレビアニメなら、「ぼくにも/私にも書ける!」と思ってしまうのである。しかも、テレビアニメは、ほとんどが原作ものである。
最初は、原作を読み、例えば4コママンガなら、そこに書かれているギャグを使ってストーリーを膨らませるというのが、アニメ作家の仕事だ。作ったストーリーの脚本に、使ったギャグの部分の4コマをコピーして貼り付けて、プロデューサーに渡す。というようなことをぼくもやった。そういう作業は最初だけで、すぐに原作が足りなくなる。次は、キャラクターだけ使って、オリジナルストーリーを作ることになる。
「サザエさん」などは、原作者の長谷川町子さんが亡くなってもそういうことで続いている。「サザエさん」の優れている点は、多くの違う作家が関わったとしても、その世界観を決して壊さないようなルールが決まっていることだ。
初めてサザエさんを書く作家には、「誰が誰をどう呼ぶか」を書いた表が渡される。カツオはサザエを「姉さん」と呼び、波平はマスオを「マスオ君」と呼ぶ。このルールは決して破ってはいけない。
世界観を守る仕事をするチーフ脚本家はシリーズ構成と呼ばれたりする。
このアニメ脚本家界で大御所と呼ばれるのは、辻真先(サザエさんなど)、雪室俊一(魔法使いサリーなど)、浦沢義雄(魔法少女ちゅうかなぱいぱい!など)、高屋敷秀夫(めぞん一刻など)、金春智子(Dr.スランプ アラレちゃんなど)である。これは、筆者が少しでも面識がある人をあげたまでで、他意はない。
作家にとってのアニメの魅力は、自分の子供に自慢できることである。
「ほら、ほら、これお父さんが書いたアニメ、最後のところにお父さんの名前が出るぞ。出たあ」
・・・と言うことで、アニメをやっている作家に頼んで、自分にも一本書かせて下さい、という話になって、それは意外と簡単にプロデューサーのOKが出たりする。その理由は常に新鮮な感覚を求めている入れ替わりの激しい世界だからである。そういう感じで一本だけ書いたりする訳だが、すぐに、自分のとり組み方が甘いことに気づかされて退散する。
退散したひとりには筆者もいる。
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