<成功しないテレビ番組の条件>芸能プロダクションの社長が決定権を持っている番組が最悪?

社会・メディア

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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筆者たちのような「放送作家」というポジションは、テレビ制作において「決定権」を持つことはない。いくら年とっても、いくら実績を積んでも「決定権」を持つことはない。
放送作家の仕事はA、B、C、D、E、F、G・・・と、いくつも違うパターンのアイデアを出すことだ。アイデアを出した上で、

「A、B、C、D、E、F、G・・・どのアイディアがいいですか? 決めてください、ディレクターさん」

というのが正しい仕事のあり方だ。
ときに「これしか無い」と、ひとつのアイディアを主張する放送作家がいる。そして、こういうタイプの放送作家を好んで使うディレクターもいる。なぜかというと、「自分では何も決められないディレクターだから」である。
つまり、他人に決めて欲しい。決定権を持って責任は取りたくない。というディレクターなのである。筆者は、こういう相手をパートナーにして仕事をしたいとは思わない。
うまくいっている番組には必ず「たったひとりの決定権者」がいる。この人が決めれば100人だろうが200人だろうがスタッフがその方針に従って動く。強大な権力者だ。独裁者だ。
この独裁者になれる資格を持っている職種は3つある。
プロデューサー、チーフディレクター、バランス感覚を持って話ができる自分の利権だけを考えない出演者(日本には3人しかいない)。と、いうことは独裁者になれるのは現実的に2職種である。
「たったひとりの決定権者」は何を決めるのか。まず、スタッフの適材適所の配置である。よって、これに口を出す出演者や、芸能プロダクションの幹部はおかしい、ということは誰もが分かるだろう。
芸能プロダクションの社長が決定権を持っている番組は最悪なのである。
「たったひとりの決定権者」のもうひとつの仕事は、どこに向かっていくのか番組の大方針を決めることである。
これに編成局の人が大きな権限を持って口を出すことがある。しかし、そうしたければその人は、人事異動してもらって現場をやれば良いのである。現場を指揮できるのは現場の人だけだ。リモートコントロールは現場の反感を招くだけだ。
この「たったひとりの決定権者」は、自分の下に分身を置いて、細かいコーナーの担当や枠の仕組みを決めさせる。その時、肝心なのは「たったひとりの決定権者」は、そうした分科会の会議には決して出てはいけないということだ。
分身だと思っても、人間は違う考えを持つのが普通だ。だから「たったひとりの決定権者」は、分科会にでて発言したい気持ちをグッとこらえて会議には出ないようにしなければならない。鷹揚な感じで「どう決まったの?」と聞けばよい。
決まったことが気に入らないときはオンエアの5分前でもひっくり返していい。それが、原則としての「たったひとりの決定権者」である。
「たったひとりの決定権者」の下に、部分を任されたやはり「たったひとりの決定権者の分身」が沢山いて、その縦構造になっている番組。経験則で言うと、成功した番組はきまってその構造が出来上がっていた。
「たったひとりの決定権者」は孤独になる。孤独になるのが嫌な人は決定権者になってはならない。
よく、トップに訳のわからないプロデューサーが君臨することがある。こういうケースは不思議なことに意外と多い。理解に苦しむが、おそらく「人事の七不思議」なのだろう。これはどの世界にもあることかもしれない。
その場合は脳(トップ)が壊れていると判断して免疫(スタッフ)が、脳を拒否するという荒業も必要だ。脳は神棚にでも祭りあげて時々、御託宣を下してもらうことにしよう。御託宣ならありがたく承っておいて、右から左に聞き流せば良い。
しかしながら、意外にも「トップがダメなとき」でも番組は成功するから、おかしなものだ。トップがダメだと、危機感を抱いた下がまとまるのであろう。下がまとまるには、下が優秀とういう条件は必要ではあるが。いびつな構造だが「陰の決定権者」が存在しているということなのかもしれない。
放送作家として長くテレビ制作携わり、そしてその現場をつぶさに観察してきた筆者が言いたいことはひとつだ。

「誰が決めるかわからない番組は絶対成功しない」

「船頭多くして、船、山に登る」ということわざは実に的を得ている。
 
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