映画「シェイプ・オブ・ウォーター」には監督以外の誰かによってカットされた部分がある?

映画・舞台・音楽

保科省吾[コラムニスト]

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映画『シェイプ・オブ・ウォーター』の公式ホームページの謳い文句には、こうある。

「ベネチア国際映画祭の金獅子賞を獲得した名匠ギレルモ・デル・トロ監督作品。比類なき世界観のなか、言葉なしで溢れんばかりの感情を表現する女優サリー・ホーキンスが渾身の演技をみせるサスペンスフルでユーモラス、かつ官能的な、究極のファンタジー・ロマンス映画。」

確かにサスペンスもユーモアも官能もファンタジーもロマンスもあるが、どれも中途半端で訴えてくるものがない。これが筆者の率直な感想である。

【参考】映画「グレイテスト・ショーマン」単なる成功物語では物足りない

原題の「The Shape of Water」は、筆者の英語力では「水の形」と訳すことしか出来ない。水には形がないので東洋の思想に寄れば、「水は方円の器に随う」(孔子『韓非子』)ということになるが、四角い器に水を入れれば水も四角い形になり、丸い器に水を入れれば水も円形になる。転じて、人も環境や付き合う人物いかんで良くも悪くもなるということをギレルモ・デル・トロ監督は伝えたかったのだろうか。もちろん、そうではないだろう。

物語はこうだ。

「時は1962年。アメリカとソビエトの冷戦時代、宇宙開発競争の時代。清掃員として政府の極秘研究所に勤める声を失った女性イライザ(サリー・ホーキンス)は孤独な生活を送っていた。しかし、同僚のゼルダ(オクタヴィア・スペンサー)と一緒に極秘の実験を見てしまったことで、彼女の生活は一変する。人間ではない不思議な生き物との言葉を超えた愛。それを支える優しい隣人らの助けを借りてイライザと『彼』の愛はどこへ向かうのか・・・」

人間ではない不思議な生物とは、予告編などで分かるとおり、ある種の水棲生物である。孤独な者同士であるイライザと水棲生物は恋に落ちる。同じ設定で直ぐに思い出すのは、小川幸辰・作のマンガ「みくまりの谷深」(KADOKAWA)である。こちらは民俗学ホラーとして確立しているが、『シェイプ・オブ・ウォーター』の方はそうでもないようだ。

色々と考えた結果、本作でギレルモ・デル・トロ監督が伝えたかったのは、エロスとタナトス (生と死)ではないかという思い至った。それが一番しっくりくるような気がした。

しかし、そうであるとすれば、それはそれで足りないカットがある。イライザと水棲生物の愛の交歓である。冒頭部分は描かれるが、ずばりそのもののセックスシーンがない。

この映画の場合、これがなければエロスとタナトスは描かれたとは言えないだろう。それは監督も分かっていると思う。ということは、映画『シェイプ・オブ・ウォーター』には監督以外の誰かによってカットされた部分があるのではないか・・・そんな邪推さえ働いてしまう。考えすぎだろうか?

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