<現在のテレビに与えた功罪>久米宏が語る「ニュースステーション論」
高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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フリーアナウンサー・久米宏の書いた「久米宏です。 ニュースステーションはザ・ベストテンだった」(世界文化社)が、おもしろい。バラエティ化したニュースショウ「ニュースステーション」(テレビ朝日:1985〜2004)が現在のテレビ界に与えた功罪を語りも率直である。
誰もが聞きたい「ニュースステーション」の功罪であるが、筆者にとっての久米さんは、「ぴったしカン・カン」(TBS:1975〜1986)の久米宏である。筆者は早稲田大学第一文学部を中退した昭和52年の春、下請けのテレビ制作会社イーストの社員になった。下請け会社と言っても受験者は800人。合格は3人であった。テレビ界がまだまだ、キラキラ輝いて見えた時代だったのである。
配属された先はTBSの「ぴったしカン・カン」であった。ついた仕事は5thのAD、つまり5番目(末端)のAD(アシスタントディレクター)である。末端ADと言えば、制作現場ではゴミのような扱いである。見習い期間の月収は3万円。その当時でもアパート代が1万円である。残り2万円ではとても暮らしてはいけない。それでも何とかやっていけたのは食費が全くかからなかったからである。
昼は局の豪華な弁当、夕食は、ディレクターのお世話係をかねて連夜寿司屋のお供。朝食は寿司屋の女将さんがくれる折り詰め。贅沢な話だが、お陰で寿司は今も嫌いである。西村さんというあるプロデューサーは、社員AD(下請けのADではない)にこう厳命していた。
「社員なだけで何倍も給料もらってるんだから、お前ら、下請けのADにはなんでもおごれ」
筆者など、ディレクターに服を買ってもらってさえいた。
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5thのADだった筆者だが、上のADが辞めるなどして、あれよあれよという間に、チーフADになった。スタジオ客席最前列の真ん中に座って司会の久米さんに指示を出すのが仕事である。その時になって初めて、久米さんと口がきけた。
久米さんは本のなかで実に正しい認識をしていたが、「ぴったしカン・カン」は、クイズ番組ではない。ゲーム番組である。なにしろ、欽ちゃんこと萩本欽一はじめ、クイズ番組の跋扈を憎む人々がつくっていた番組だったのだ。目標は答を当てることではなく、笑いを取ることである。
本の中で、久米さんは「ぴったしカン・カン」はコント55号の番組だった。ぼくは、居ただけだった。でもテレビの本質に気づいたのはこの番組だった、という趣旨のことを短く書いている。
でも、それも「違う」ということを筆者は当時、目の当たりにしている。
大将(欽ちゃん)は常々「『ぴったしカン・カン』は久米ちゃんの番組だ」と言っていたし、大ボケの回答をするテレビ界の大物の欽ちゃんと二郎さんに「バカ」と言えるのは久米さんだけだった。さらに、久米さんが去った後の番組は途端につまらなくなった。
本書には久米さんがフリーになった時のことも書いてある。
筆者はその頃、既に放送作家になっていて「ぴったしカン・カン」や「笑ってる場合ですよ」(フジテレビ:1980〜1982)の台本を書いていた。何の因果か、筆者が所属していたのは後に久米さんが所属することになるオフィス・トゥー・ワンであった。大作家・阿久悠の所属する事務所でもあった。
放送作家になって直ぐに筆者は週に15本ものレギュラー番組を持たされていたが、あまりもギャラが安いのと過労で持たなくなって、ルールを破って事務所に断りなくオフィス・トゥー・ワンを辞めた。そこに、久米さんが移籍してきたのである。
オフィス・トゥー・ワンのマネジャーはTBSとフジテレビのプロデューサーのところに回って、芸能界のルールを破った筆者を「辞めさせるように」と迫った。「久米を取るか筆者を取るか」との誰でも即答出来るようなことも言ったという。それに対しTBSの長谷部さんもフジの横澤さんも「一プロダクションに内政干渉されるいわれはない」と言って、はねつけてくれた。
そういうすぐれたプロデューサーのいる時代を生きられた久米さんも筆者も幸せだったと言うことでもある。
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