なぜテレビの「劇場中継」は面白くないのか?
高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]
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テレビでやる劇場中継は、そのおもしろさを伝えることができない。どんなにおもしろい舞台でもテレビ中継になると、なんだかシラけた劇場が写ってしまう。
その理由はいくつあるだろう。まず、テレビは客も含めた劇場の空気感を伝えてきれていないという理由がある。極端な例かもしれないが、劇場の空気感はハコ(劇場)の大きさ、天井の高さ、イスの作り・・・などによって違う。
商業用につくられた劇場と、体育館で行われた芝居を比べるようなことを想像すればわかりやすいかもしれない。そもそも熱量が違うのだ。残念ながらテレビは熱量を伝えるのがあまり得意ではない。
もちろん、劇場中継が「シラける」ということが分かって来た頃から、テレビは少しずつ工夫を始めた。
まず、役者自身や芝居の勘所をアップで撮った。テレビは基本的にアップのメディアだ。部分を切り取るのは得意だが全体像を捕まえるのは不得手である。だからアップなのだが、これは失敗だった。
劇場の面白さは個々の役者のアップの芝居にあるのではない。その面白さや魅力は、舞台全体の板の上に載った役者全員から醸し出されているのである。
欽ちゃんこと萩本欽一は、かつて「引け、引け」「アップにするな」とはカメラに怒鳴っていた。
「おもしろいのは僕のアップじゃない。二郎さんも写っているふたりの関係性だ」
浅草松竹演芸場からの中継『コント55号のなんでそうなるの?』(日本テレビ・1974〜1976)は常に爆笑だった。
その後、テレビの劇場中継はおもしろさも伝える事が出来るようになった。理由は何のことはない。テレビの解像度が上がったからである。「8時だよ、全員集合」はテレビ用に大光量で照らされた舞台から生中継で緊迫感を伝えたし、花紀京と間寛平の吉本新喜劇も、藤山寛美の松竹新喜劇もおもしろさを担保した。
【参考】ラーメンズ小林賢太郎のコント舞台「カジャラ『裸の王様』」が全く笑えない理由
こんな事を考えたのは、ラーメンズ・小林賢太郎が書いた「僕がコントや演劇のために考えていること」(幻冬舎)を、読んだからである。この本は、小林の劇作のモットー集だがそのなかに「客席のサイズにきちんと反応する」とあった。小さな劇場なら小さな劇場なりに、体育館なら体育館なりに芝居を作り上げることだと思うが、そこに気づいていない芝居はまだまだ多い。
他のモットーも肯けるものばかりだ。というより、テレビのコント作家である筆者と全く同じ考えであることにびっくりしたぐらいである。いくつか挙げる。
*人を傷つけない笑いであること。
小林は「笑わせる」と「笑われる」にそう違いはない、と言う。筆者は、ジミー大西の漢字が読めない「笑われる」は、芸として昇華していると思っている。
*変な人であることを認めつつ、自分の普通さを死守する。
筆者はこういう資質を持った人がクリエイターとして最良であると思う。
*〆切りとは完成品の更新をやめるときのこと。
そのとおりだと思うが、筆者は更新に疲れてしまうことが、よくある。
*できない理由を並べずに、できる方法を考える。
こういう考え方がすぐれたテレビマンには必要だ。
*「おどけ」は必要ない。
筆者は笑いを取ろうとして変な顔をする役者を最低だと思う。
*コントが出来ても漫才ができるとは限らない。
筆者は漫才が出来てもコントができるとは限らないと考えている。コント役者に何より必要なのはストレート・プレイでも通用する演技力であるからだ。
*つくる順番は「しくみ」「オチ」「素組み」「装飾」
小林の言う「素組み」とは、コントの流れのことだろう。「しくみ」を僕は「設定」と呼んでいる。おもしろい「設定」さえあれば、後はどうにでも動けると言うのが筆者の考えだ。小林と同じ落語研究会出身の筆者は、昔、いい「オチ」ばかりを考えていたが、いまは「オチ」などいらない、落とさなくてもいい、という考えになった。終われればいい。点検して見れば分かるが古典落語にもそう秀逸な「オチ」はない。
ところで、あまりに考えが同じでは、筆者が書くものがすべて小林の二番煎じになってしまいかねないので、違うところはないかと目をこらしてみると、あった。
*楽しみ下手なお客様のためにできること。
小林は舞台を見に来た喜怒哀楽感情を表に表すのが苦手な人に合わせてコントを書いていると言う。しかし、筆者は逆である。よく泣き、よく笑う人に合わせて書いている。もちろん、これは作り手の考え方、感じ方の違いであって、良し悪しを論じられるものではないのだが。
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